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「国籍不明の K-POP シンガー」という設定による架空のキャラクター、♥♥♥LOVE♥♥♥(ラヴ)名義で、あのはるな愛さんが、ニュー・シングル「Crazy Love」を、10月20日、ポニー・キャニオンからリリースなさいました。

って、せっかくの設定をはなから無視するような書き方をしてしまいましたが。

Crazy LoveCrazy Love
(2010/10/20)
♥♥♥LOVE♥♥♥

商品詳細を見る


♥♥♥LOVE♥♥♥公式サイトでは、はるな愛さんご本人が、プロデューサーという立場でコメントを寄せています。それによると、♥♥♥LOVE♥♥♥というシンガーは、次のように設定されています。

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♥♥♥LOVE♥♥♥とはタイでのニューハーフ世界一決定戦『ミス・インターナショナル・クイーン2009』で優勝した後にアジアで出会いました。私の理想の女の子です。はるな愛に出来なかった事をすべてそそぎます。顔まで似ちゃったかな?! 早く皆さんに♥♥♥LOVE♥♥♥に触れてほしいです。


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さて。

このコメントの中で、ぜひみなさんに注目していただきたいのは、「はるな愛に出来なかった事をすべてそそぎます。」の一文。

これはいったいどういうことなのかというと。

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2010.10.30 Top↑
「Never Marry an Icon」ジャケット既に先月の話となってしまいましたが、デッド・オア・アライヴのヴォーカリストであるピート・バーンズ(Pete Burns)のソロ・シングル、「Never Marry an Icon」が、9月3日、iTunes Store にてデジタル・リリースされました。

デット・オア・アライヴとしての新作は、セルフ・カヴァーを別にすれば、2000年のアルバム『フラジャイル (Fragile)』以降絶えて久しく、ピートのソロ作も、ペット・ショップ・ボーイズがプロデュースした2004年のシングル「Jack & Jill Party」があるのみ。「Never Marry an Icon」はファンが長らく待ち焦がれていた久々の新曲です。

デッド・オア・アライヴ バイオグラフィー (Queer Music Experience.) ←読んでね。

今作はデッド・オア・アライヴのスティーヴ・コイが設立したレーベル、ブリスター・レコーズからのリリースです。しかし、プロデュースを手がけているのはスティーヴ・コイではなく、ロンドンの新進エレクトロニカ・バンド、ダーティ・ディスコのメンバー。ゆえに、今作の音作りはダーティ・ディスコのカラーのほうが強く出ているのかもしれませんが、ファンがピートの音楽に求めているもの――明快なサビを備えた、スピード感のあるダンス・ミュージック――は、充分に実現されています。

それよりも、今作で興味深いのは、その歌詞です。

これまでのピートの楽曲は、私小説的な性質が希薄であったように思います。インタヴューでは赤裸々な内容を語るのも厭わない、実にあけすけな性格のピート・バーンズですが、彼が歌う詞の多くは、ファンタジーとしてのラヴ・ロマンスが中心で、彼自身のプライヴェートを生々しく反映したものではありませんでした。

しかし、今作は違います。

今作の歌詞では、自身の顔面整形について、言及がなされています。

この曲は、これまでのようにファンタジーを歌っているのではなく、ピート・バーンズの振る舞いを嘲笑的に書き立てるタブロイド紙と、それを面白がる人々を批判したものなんです。

ピート・バーンズにとって、この「Never Marry an Icon」という曲は、マイケル・ジャクソンのキャリアにおける『ヒストリー (HIStory)』の位置づけに近いものがあるように、私は感じます。

それまではファンタジーを歌い続けてきたマイケル・ジャクソンが、少年虐待疑惑を巡る裁判を経て、初めて生の怒りの感情をさらけ出したのが、『ヒストリー』という作品でした。この作品は、発表当時も今も、「痛々しい」という否定的な評価がもっぱらですが、私はそうは思いません。偶像ではない、生身の人間としてのマイケル・ジャクソンが、『ヒストリー』の中にはいるのです。その悲痛な叫びに、私は強く心を動かされたものです。

ピート・バーンズの「Never Marry an Icon」も、人によっては「痛々しい」という否定的な感想を抱くかもしれません。しかし、この楽曲の中には、ファンタジーの語り部ではない、生身のピート・バーンズがいるのです。

その内面の叫びに、みなさんもぜひ耳を傾けてみてください。



"Never Marry an Icon"
(Live at Carpet Burn, The Eagle, 2010.9.10)

http://www.youtube.com/watch?v=pat55DBsBEg




Pete Burns (of Dead Or Alive)「Never Marry An Icon」 - iTunes で「Never Marry An Icon」をダウンロード




2010.10.28 Top↑
10月25日付で AfterElton.com に掲載された記事によると、イタリアの人気シンガー・ソングライター、ティツィアーノ・フェッロ(Tiziano Ferro)が、10月6日に発売されたイタリア版『Vanity Fair』誌のインタヴューを通じて、ゲイであることをカミング・アウトしたそうです。

Tiziano Ferro: ≪Mi voglio innamorare (di un uomo)≫ (Vanity Fair Italia/style.it, 2010.10.05)

イタリア版『Vanity Fair』10月6日発売号表紙
見出しの"Mi voglio innamorare di un uomo"は、日本語に訳すと、
「僕は男性と恋をしたい」という意味になります。


私はイタリアン・ポップスについての知識が皆無に等しいので、ティツィアーノ・フェッロの名前も、今回のニュースで初めて知りました。どんなアーティストなのだろうと思いインターネットで調べてみると、ここ日本にも既に大勢のファンのかたがいらっしゃる、ワールド・ワイドな人気アーティストでした。

ラテンの家系に生まれたティツィアーノ・フェッロは、イタリア語だけではなくスペイン語でも歌っています。本国イタリアはもちろんのこと、スペインやフランス、スイス、ベルギーといった西ヨーロッパ諸国や、さらにはメキシコやアルゼンチン、チリ、コロンビアといった中南米の国々でも、プラチナ・ディスクやゴールド・ディスクを獲得しています。

英語版 Wikipedia に掲載されていたプロフィールを簡単にまとめると、ティツィアーノ・フェッロは1980年2月21日生まれの30歳。1998年、イタリアの人気歌手を多く輩出しているサンレモ音楽祭に参加。ここで12人のファイナリストに選ばれたのをきっかけに、マーラ・マイオンキとアルベルト・サレルノという2人のプロデューサーに見出され、2001年にアルバム『Rosso Relativo』でデビュー。以降、2003年に2nd『111』、2006年に3rd『Nessuno è Solo』、そして2008年には4th『Alla Mia Età』をリリース。これらのアルバムは累計で800万枚の売り上げを記録しているそうです。2004年にはMTVヨーロッパ・ミュージック・アウォードでベスト・イタリアン・アーティストを受賞。文字通りイタリアを代表する人気アーティストの一人となりました。

そのときの受賞曲が、「Sere nere」。2nd アルバム『111』からのシングルで、スペイン語ヴァージョンのほうはアメリカの『Billboard』誌のラテン・チャートで No.1を記録しています。

"Sere nere"
(2004)

http://www.youtube.com/watch?v=gGgakHVBSAs


さて、今回のティツィアーノ・フェッロのカミング・アウトなんですが、どうやらイタリアでは、メジャー・シーンで活躍する人気アーティストが同性愛をカミング・アウトした前例がないらしいんです。AfterElton.com の記事も"Italian singer Tiziano Ferro became the first openly gay Italian pop singer"と報じています。

加えて、イタリアでは同性愛者に対する風当たりが依然として強いらしいんですね。今回の件について書いている日本語ブログもいくつか拝読したのですが、いずれのブログでもそのことが言及されていました。

そうしたイタリア社会の中にあってなお、ティツィアーノ・フェッロがカミング・アウトを決意した背景には、それをしなければこれ以上は前に進めないという、大きな苦悩があったであろうことは、想像に難くありません。

上にリンクを張ったイタリア版『Vanity Fair』誌のインタヴューの抜粋記事は、次のような一節から始まっています。

≪Che cosa succederà dopo?≫, chiede Tiziano Ferro. Poi si risponde da solo: ≪Niente sarà più come prima≫.


これを翻訳ツールで英語に直すと、

"What happens next?" Asked Tiziano Ferro. Then he answers his own question: "Nothing will ever be."


"Nothing will ever be."――「何もかもが、以前のようにはいかなくなるだろう」。

つまり、ティツィアーノ・フェッロは、このカミング・アウトによって、これまでに築き上げてきたシンガー・ソングライターとしてのキャリアが、すべて失われてしまうかもしれないことすら、覚悟しているんですね。

にもかかわらず、ティツィアーノがこうしてカミング・アウトに踏み切った理由、それは「より良い人生を送りたい」という思いからでした。

インタヴューによると、彼は二年前から精神分析を受けていたそうです。自身の同性愛に苦悩し、二年間の精神分析を続けた末に、「より良い人生を送りたい」という結論に達した彼は、これまでのキャリアが失われるのも覚悟の上で、今回のカミング・アウトを決意したのです。

ティツィアーノは、10月20日に本を上梓しました。タイトルは、『Trent'anni e una chiacchierata con papà』。

日本語に訳すと、『30歳、そして父との対話』。

この本は、彼が1995年から今日まで書き続けてきた日記と、彼の父親との対話を収録したものです。イタリア版『Vanity Fair』誌のインタヴューは、どうやらこの本のパブリシティの一環として行なわれたもののようです。

日記の中では、自身が同性愛者であることの苦悩と葛藤が綴られているそうです。AfterElton.com の記事によると、この本についてティツィアーノは次のように語っています。

「僕が誰かを救えるだなんて思ってはいない。僕はそんなに傲慢じゃない。だけど、僕の本を読んでくれた人が、僕みたいに何年もの時間を棒に振らないで済んだとしたら、僕は嬉しい。」



2010.10.26 Top↑
GtMフライヤー10月17日に東京・初台のライヴ・ハウス、TheDOORS で行なわれたGtM (Girls to Men)のライヴを観てまいりました。9月23日のお披露目ライヴに続いて、これがGtMにとって2回目のライヴとなります。

GtMは、当ブログの9月24日付のエントリでも紹介させていただきましたが、4人のメンバーのかた全員がFtM (Female to Male)のアイドル・ユニットです。

私は前回のお披露目ライヴには足を運ぶことができなかったので、今回がGtMの初体験となりました。

司会を務められたのは、アイドル・グループ・制服向上委員会の会長の橋本美香さんと、総合音楽家としてマルチに活躍なさっている和久井光司さんのお二人。そしてゲストには、頭脳警察のパンタさんが登場なさいました。

GtMはまだデビューしたてで、持ち歌が少ないことから、現時点では司会のお二人とのトークがライヴの中心となります。しかし、今後持ち歌の数が増えていっても、GtMのライヴにおいてトークは重要な位置を占めるだろうと思いました。

そう思った理由は、もちろんトークが楽しいからというのもあるのですが、それだけではなく、GtMのみなさんのトークというのは、私たちオーディエンスに「気づき」を与えてくれるものだからなんです。



日ごろから「LGBT」という言葉を多用している私ですが、その言葉に包含されている性愛観や身体感覚のすべてを、等しく自分のものとして実感できているわけではありません。私は異性愛経験を全く持ったことのない男性同性愛者なので、男性同性愛の性愛観や身体感覚しか経験的にはわからないし、それ以外は実感し得ない。そんな私が女性同性愛や両性愛、GIDのかたの性愛観や身体感覚を理解したいと思うならば、結局は想像力で補うしかないんです。ところが、想像力というものは、その人の人生経験の如何によって精度が大きく左右されるし、それによって自ずと限界も生じます。フィクションを組み立てるための想像力と、現実の存在である人と人とが互いをより良く理解しようとする際に必要とされる種類の想像力とは、実は全くの別物で、その研鑽は後者のほうがはるかに難しい。だから、最終的には当事者の生の声を聞かなければ気づくことのできないものが、「LGBT」という言葉を多用している私にも、やっぱりたくさんあるんです。当然、間違った理解の仕方をしている事柄だって、たくさんあるはずです。

正直な話をすると、私にとって女性同性愛や両性愛、トランスジェンダーのかたたちというのは、身内のようでいて、実はいちばん遠い存在です。「LGBT」という言葉を多用しているわりには、G(ゲイ)の友人の数に比べて、L(レズビアン)やB(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)の友人の数が、圧倒的に少ないんですね。LやBやTの友だちももっともっと欲しいんだけど、ふだんの生活の中で知り合える機会は少ない。だから、そうしたかたたちの生の声を聞く機会も少ない。

そんな私が性の多様性について力説したところで、それは所詮、男性同性愛者からの目線でしか語り得ていないものだという、情けなさと歯がゆさがあります。

そして、実は私だけでなく、おそらくはLGBTのかたの大半が、LGBT相互の関わりを、それほどには持っていないという気がするんです。

ゲイの人権活動家とか研究者のかたであれば、レズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたとの接点はたくさんあると思います。しかし、そうした活動に携わっていないゲイのかたが、ふだんの生活の中でレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたと接点を持つ機会は、そんなにはないと思うんですよね。

レズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたたちの側でも、似たような状況がたぶんあると思います。というのも、カミング・アウトをして社会生活を送っているゲイ男性の数は決して多くはないから、意識的にゲイ男性と関わりをもつ機会を作らない限りは、ふだんの生活の中でゲイのかたの生の声を聞くことは、ほとんどないんじゃないでしょうか。

もっと言ってしまうと、同性愛者のあいだでもミソジニー(女性嫌悪)やミサンドリー(男性嫌悪)といった嫌悪感情をむき出しにしているかたは現実問題として多いし、「私は異性愛の女性である」という性自認と性的指向を持っているMtF (Male to Female)のかたが、LGBTという言葉で同性愛者と一括りにされるのは不本意だと公言なさっている例もあります。

性的少数者のあいだでさえそのような溝があるのだから、ましてやそこに属していないかたたちがLGBTの生の声を聞く機会は、意識的にそれを求めない限り、そうそうないと思うんです。

インターネットを用いれば、自分とは違う(と自分では思っている)世界に生きている人たちの声を聞くことは、確かに可能です。しかし、それにもやはり限界があるはずなんです。インターネットというものは「自分の側から情報を探しに行く」という性質の強いものだから、たとえばレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたたちの声に無関心なゲイ男性のかたたちが、インターネットを通じてそれらのかたたちの声を耳にするということは、ちょっと考えにくい。

ゲイの当事者でさえ、そういう具合なんだから、いわんや、性的マジョリティのかたをや。

インターネットというものは、ほとんどの人たちにとっては、あくまでも既に関心のある事柄についての理解を深めるためのツールとして機能しているのではないでしょうか。自分を顧みてそう思うんです。そして、インターネットを通じて関心の範囲を自ら拡張していくことのできるかたたちというのは、たぶん最初からそのような努力とか工夫を意識的になさっているかたたちなのだと思います。

だからこそ。

性同一性障害や、その他の性の問題に関心のないかたたちに、新たに関心を持ってもらいたいと思うなら、GtMのようにマス・メディアに打って出るユニットの存在は、非常に大切なものである、と私は考えています。



10月17日のGtMのライヴでは、前回のお披露目ライヴのあとの、マス・メディアからの反響について、メンバーのみなさんがお一人ずつ話をされました。Google の検索語ランキングで「GtM」が6位まで上昇したというお話も出てきたんですが、これというのは、新聞・テレビの報道や、それらを転載したニュース・サイトの記事でGtMの存在を知ったみなさんが、より詳しい情報を求めてネット検索を行なった、という流れのはずなんですね。

この流れというのは、関心を持ってもらう最初のきっかけとしては、インターネットよりもマス・メディアのほうが、少なくとも2010年の現時点では、依然としてアドバンテージがある、ということを示しているのではないでしょうか。

性的少数者のタレントのかたや歌手のかたがマス・メディアに登場することの意義というのは、ここにあると私は思うんです。

より良き理解の最初の一歩として、まずは関心を持ってもらう、ということ。

私がGtMの存在を知ったのは Twitter がきっかけで、しかもまだGtMというユニット名も決定していないころだったのですが、それはたまたま私という人間がLGBTの歌手やミュージシャンに最初から大きな関心を持っていて、そうした関心のもとにソーシャル・ネットを利用していたからなんですよね。だから私のようなケースは極めて稀のはずで、そうではなくトランスジェンダーにそれほど関心のないかたがGtMの存在に興味を示してくれたのだとすれば、それはマス・メディアの報道の力があったればこそなんです。

ところが、マス・メディアの力というのは、そのトピックに深い関心を持っていない人たちに新たに関心を持ってもらうには有効であっても、そこから理解を深めてもらうには決して有効とは言えないという部分があると思います。それがマスである以上、どうしても最大公約数的な性質の内容しかマス・メディアは伝えられない。だから、関心を持ってくれたかたたちに、より以上に理解を深めてもらおうとするならば、マス・メディアへの露出だけではむしろ限界があるんです。

そこで今回のライヴのような場が、GtMのみなさんにとっても、それからGtMに関心を持たれたみなさんにとっても、いちばん重要な空間になってくる、と私は思うんですね。

なぜなら、ライヴという場にこそ、関心を持った次の段階で初めて得られる、さまざまな「気づき」があるからです。



今回のライヴで披露されたのは、12月1日に発売されるライトなR&B調のファースト・シングル「声を聴いて~エコーズ~」と、アップテンポのカップリング曲「人として」の2曲。そしてライヴのエンディングには、制服向上委員会のメンバーのみなさんもコーラスに加わっての、「声を聴いて~エコーズ~」が再度パフォーマンスされました。

CDが発売されるのはこれからなので、正確なクレジットはわからないのですが、トークの内容によると、「声を聴いて~エコーズ~」を作曲されたのは司会を務めておられた橋本美香さん、そして「人として」を作詞・作曲されたのがもう一方の司会でいらっしゃった和久井光司さんのようです。

和久井さんは、曲紹介のトークの中で、「人として」の歌詞はGtMのメンバーのみなさんのプロフィールを基に書いたもので、メンバーのみなさんの気持ちを代弁したものになっていると自分では思っている、とおっしゃっていました。おそらくは橋本さんも同様の思いで「声を聴いて~エコーズ~」を作曲されたのだと思います。この2曲を私が素晴らしいと思ったのは、そのようにして書かれた2曲が、2曲とも非常に明朗な曲調の作品であった、ということなんです。

少数者の声を代弁するという意図の下に書かれた曲は、過去の例を見る限りでは、えてして悲壮な曲調になりがちなんです。アーティスト本人が書いた場合でも、外部のソングライターが書いた場合でも、そこに「差別との闘い」というニュアンスを持ち込んでしまうと、かえって悲壮味が増してしまうんですね。

ところが、和久井さんや橋本さんがGtMのために書いた曲は、そうではないんです。

GtMのメンバーのみなさんにとって、音楽とは、決して闘争とかロビーイングの手段ではないはずなんです。音楽を通じて、理解と融和、そして本来の自分を生きることの喜びを広げていきたい、それこそが、メンバーのみなさんの願っていることのはずです。たぶん和久井さんも橋本さんも、そうしたメンバーのみなさんの気持ちを、しっかりと汲み取っておられるのだと思います。そして、その願いを、明朗な曲調の中に託されたのではないか――私はそう感じました。

ちなみに、和久井さんはトークの中で冗談めかして、「歌、もうちょっと上手くなってね(笑)」とおっしゃっていましたが、確かにスキルの面ではGtMは未完成であるかもしれません。しかし何かが不足しているという印象は、私には全く感じられませんでした。

どれだけ完成された歌唱力の持ち主であっても、人の心を動かす何かを決定的に欠いてしまっている歌手の人って、実は珍しくもないでしょ? 誰とは言わないケド。

でも、GtMはそうじゃない。

これらの曲を歌うGtMのみなさんの姿からは、「ここでこうして歌えることの喜び」のようなものを、強く感じました。本来の性を生きていくことで叶えられる自己実現と、歌とダンスによって果たされる自己実現。この2つの自己実現が、GtMのみなさんのパフォーマンスに、強い輝きを与えているんですね。



私は先に、「これから持ち歌の数が増えていっても、GtMのライヴにトークは欠かせない要素になるだろう」と書きましたが、だからといって、歌やダンスの全くないGtMのライヴなどは、ゼッタイに考えられない。

GtMのライヴは、厳然として歌とダンスが先ずありきのものなんです。

歌やダンスといったパフォーマンスを通じて自己実現を果たしている、そんなかたたちだけが伝えることのできるものがあります。

それは、希望です。

GtMのライヴには、それがある。

私のようにただ文章をネット上にダラダラと垂れ流しているだけの人間にはゼッタイに伝えられないものを、GtMのみなさんは、伝えることができるんです。

それが、希望です。

このブログをご覧になってくださっているみなさん、ぜひご自分の心に問いかけてみてください。私のように、頭で考えた理屈をこねくり回しているだけの人間が語る言葉と、GtMのみなさんのように、歌やダンスを通じて自己実現を果たしているかたたちがステージから語りかける言葉と、どちらに心を動かされるか。

どちらの言葉に、希望を感じることができるか。

思想や論理だけでは、人の心は動かない。

人の心を魅了する歌とダンスで自己実現を果たしているかたたちにしか伝えられないものが、GtMのライヴにはあるんです。

GtMのみなさんの歌やダンスがキラキラと輝くものであればあるほど、メンバーのみなさんの生の声は、我々オーディエンスにとって、大きな希望となるんです。



性同一性障害の当事者のかただけでなく、同性愛のかたにも、性的にはマジョリティのかたにも、そして性別や性的指向の違いがもたらす垣根と向かい合って生きている、そんなありとあらゆるかたたちに、私は、GtMのライヴを、実際に観てもらいたい。


2010.10.24 Top↑
日本で最も有名なLGBTアーティストの美輪明宏さんは、その著書やテレビ番組の中で、「無償の愛こそが究極の愛」であると、くり返し説いていらっしゃいます。有名な「ヨイトマケの唄」や、エディット・ピアフの「愛の讃歌」なども、「無償の愛」がテーマ。それらの「無償の愛」の数々を、美輪さんは大切に歌い続けておられます。

その一方、今日の J-POP で「無償の愛」の歌に出会えることって、ほとんどないですよね。「ラヴ・ソング」という言葉は半ば日本語化していますが、その日本語化した「ラヴ・ソング」がテーマとしているのは、あくまでも「恋愛」であって、「愛」ではないような気がします。

J-POP に限らず、今日のポップスで惚れた腫れたの「恋愛」を超えた先にある「無償の愛」を歌おうとすると、その多くは「愛の歌」ではなく「平和を願う歌」に回収されてしまっているように思います。たとえば、「無償の愛によって世界を平和にしましょう」という、それこそ『愛は地球を救う』ではありませんが、まず世界平和というテーマが最初にあって、それを実現するための手段として愛がある、という序列に、結果的にはなってしまっている(あくまでも「結果として」ということですが)。だから、愛それ自体が単体でテーマになっているわけではない。マイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド (Heal The World)」にしても、私はこの曲が大好きではあるんですが、その中心にあるのはあくまでも「平和への願い」であって、「無償の愛」そのものがテーマというわけではないんですよね。

もちろん、世界平和を願う歌も、それはそれで素晴らしいんですよ? 別にそれらを批判したいわけじゃない。私が言いたいのは、「無償の愛」そのものがテーマの中心に来ている楽曲は、実は現代では希少なんじゃないか? ということです。



さて、当ブログの2010年7月9日のエントリでご紹介させていただいた柏本圭二郎(かしもと・けいじろう)さんのファースト・シングル「イルミナシオン/恋の曲がり角」が、先日(10月10日)、ついに全国発売となりました。

イルミナシオン/恋の曲がり角イルミナシオン/恋の曲がり角
(2010/10/10)
柏本圭二郎

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そして同日には、ニュー・シングル「世界中のすべてのマリア」が、iTunes Store でデジタル・リリースされました。

柏本 圭二郎「世界中のすべてのマリア」この「世界中のすべてのマリア」は、前作「イルミナシオン」と同じく、作詞は PSYOW さん、作曲は小林洋介さん。昭和歌謡的な世界観をエレクトロニック・ダンス・ミュージックに乗せて歌い上げていたのが前作の特徴ですが、今作は打って変わって、スケールの大きなバラード。

プロデュースとアレンジを担当されているのは、HOME MADE 家族やスキマスイッチを手がけられた Taja の狩野佑次さん。2コーラス目からリズム体が本格的に加わることによって段階的に力強さと躍動感を増し、大サビではクワイヤー風のコーラスも加わって大団円を迎えるという構成の、感動的なバラードです。

レコーディングの模様は、圭二郎さんのブログの8月7日付のエントリに詳しく記されていますが、今作のコーラスには、Taja の田中菜穂さんや、C-C-B の関口誠人さんも参加されています。

天使のラブソング!みんな!ありがとうございましたっ!!(圭二郎のウラ生、2010.08.07)

さて、この新曲「世界中のすべてのマリア」を、圭二郎さんは「大きな愛の歌」と呼んでおられますが、この「大きな愛」というのは、私が先述したような、美輪さんがおっしゃるところの「無償の愛」と、限りなく近似値だと思います。というよりも、ひょっとしたらこの曲で歌われている「大きな愛」は、その「無償の愛」さえも労わり包み込んでしまうような規模のものかもしれません。

どれだけ裏切られ、略奪されようとも、自分はひたすら与え続ける、それは「無償の愛」。

ほんのかすかな温もりや光をよすがに、自分からは何も求めず、来世でも同じように愛し続けることを高らかに誓う、それは「無償の愛」。

「無償の愛」は、それが傷つくばかりのものであるからこそ、尊い。

しかし、この「世界中のすべてのマリア」は、そうした「無償の愛」ゆえに背負ってしまう痛みを美化するだけの、傷心ソングには終わっていないと、私は思いました。

この曲は、「無償の愛」の持ち主であるがゆえに痛みを抱えながらも懸命に生きている、そうしたすべての人々を讃え、その傷を癒すために、より大きな次元での慈しみを注ぎ込んでいる――そういう曲です。少なくとも私の心にはそのように響きました。

アメリカのミュージック・シーンでは、クリスチャン・ミュージックというジャンルが音楽市場の一角を占めていますが、「世界中のすべてのマリア」は、そうしたクリスチャン・ミュージックに近い味わいを、J-POP の世界に持ち込んだ曲であるといえます。マリア信仰を直接のテーマとしているわけではありませんが、「慈愛」とか「慈悲」の象徴として、ここでは「マリア」が歌われています。

「マリア」によって象徴される「慈愛」や「慈悲」の心とは、まさしく美輪さんが仰るところの「無償の愛」。そして、この「世界中のすべてのマリア」は、そのタイトルにもあるとおり、この曲を聴いているであろう世界中のありとあらゆる「無償の愛」の持ち主を讃え、さらにもっと「大きな愛」で包み込み、癒そうとする、そんなスケールの大きな、まさに「大きな愛」の歌なんです。

ちなみに圭二郎さんは、8月29日に新宿歌舞伎町で開催されたイヴェントで、この「世界中のすべてのマリア」を黄色いTシャツ姿で歌われたそうなんですが(というのも、そのイヴェントは今年の24時間テレビの放映と同日の開催だったので:笑)、この曲は平和を願うメッセージ・ソングである以前に、まず何よりも「大きな愛」の歌なんです。

このブログをご覧になってくださっているみなさんも、ぜひ「世界中のすべてのマリア」を聴いてみてください。そして、圭二郎さんがこの曲に込めた「大きな愛」を、感じ取ってもらえたらと思います。

柏本 圭二郎「世界中のすべてのマリア」 - iTunes で「世界中のすべてのマリア」をダウンロード



2010.10.16 Top↑
今年の6月にニュー・アルバム『オール・デイズ・アー・ナイツ:ソング・フォー・ルル (All Days Are Nights: Songs For Lulu)』が日本でもリリースされた、ルーファス・ウェインライト(Rufus Wainwright)。その新作を引っ提げての来日公演が、10月5日に東京、6日に名古屋、そして8日には大阪で行なわれました。

JCB HALL 画像私が足を運んだのは10月5日の東京公演。会場となったのは水道橋の JCB HALL 。今回のワールド・ツアー"All Days Are Nights: Songs For Lulu"は、全篇がルーファスのピアノの弾き語りによる、二部からなる完全な独演形式。第一部は、現代美術家のダグラス・ゴードンによる映像をバックに、新作『ルル』の楽曲を、曲順もそのままにステージで完全再現するというもの。そしてその第一部では、「決して歓声をあげたり拍手をしたりしないでほしい」というルーファスからの要望が、かねてから公式サイトを通じて、ファンに向けて告知されていました。

この東京公演のレポート記事を、ゲイのための総合情報サイト g-lad xx(グラァド)にて執筆させていただきました。みなさま、ご高覧をよろしくお願いいたします。



『レポート:ルーファス・ウェインライト来日公演』
http://gladxx.jp/features/entertainment/747.html



ルーファス・ウェインライト



2010.10.14 Top↑
このブログで初めて中村 中さんのことについて書いたのは、2006年9月16日。「友達の詩」が avex trax からリリースされた、その一週間後のことです。そのエントリのコメント欄に、翌月の18日、以下のような質問をいただきました。長くなりますが、ほぼ全文を引用します。

もしも知っていたらでよいのですが、

----------------------------
『yes』(注:日本で刊行されていたゲイ・カルチャー誌。現在は休刊)のインタヴューでは、中さんは「友達の詩」について、以下のように述べています。

この曲は、ずっと好きなのに友達にさえなれなかった相手のことなんですよね。だから、友達と呼ばれるだけでも上出来かもしれないねっていう曲です。初めて、“この人好きだな”って思った人と、離れなきゃいけなかった時期に、書き始めたんです。中3だったんですけど、5年くらい好きだった人で。この人を好きになることが、おかしいんだなっていう自覚が、少しずつ生まれて来た
----------------------------

というコメントがありましたが、
確かちょうどその頃、FM横浜だったと思うのですが、
中村さんが出演していました。
その中で、DJの方が「中村さんは、元は男性なのですよね?同性だから叶わない思いを詩にしたのですか?」
みたいなコメントがありました。

それに対して中村さんは、
「この曲は決して自分の事ではなく、普通の男女だったらこうなんじゃないかなぁ、、みたいに作った曲です。私が思った事を詩にしたものでは決してありません!」と、、
ラジオで聞いた言葉ですので、言葉は正確ではありませんが、何度もはっきりと断言していました。

まったく違うコメントをメディアにしてしまっているのですが、
何か考えがあってのことなのか、
単に一貫性がないのか、
ファンになりかけた時にたまたま生で聴いてしまったので、すごく気になってしまいました。
その後別のメディアでもそういったコメントに変更されているのかどうか、
気になるところです。
もしもご存知でしたら、よろしくお願いします。


この質問に、私は翌日、以下のようなレスを投稿しました。これまた長くなりますが、ほぼ全文を引用させていただきます。

ご質問の件ですが、結論から先に申し上げますと、別のメディアで中村中さんがどういった発言をしているかを、これは本当に申し訳ない話なんですが、私は把握していません。

なので、かすみさん(注:質問してくださったかたのハンドルネーム)がコメントの中でおっしゃっていた、「何か考えがあってのことなのか、単に一貫性がないのか」の具体的な判断は、私には付きかねます。

ただ、以下のように考えていくこともできるのではないか? と私は考えています。

『yes』のインタヴューの中で、確かに中村 中さんは、「友達の詩」は実体験をベースにしたという(ようにも読める)発言をなさっていますが、それと同時に、

「“共感”されたくはないんです」

「“共感しました~”なんて言われると、“じゃ私と同じ気持ちになってから言ってよ!”って思う」

ともおっしゃっているんですね。これは私の書いたエントリの中でも紹介しています。

これらの発言というのは、一見しただけでは、「私の歌は『性同一性障害を扱った歌』だ」と自ら述べているようにも見えるんですが、その見方というのは、実際のところ、実はかなり予断を含んだ解釈だと思うんです。

あくまでも純粋に、言葉の上に現れている情報だけで解釈するならば、中村中さんは、

「安易にわかったふりをしてほしくない」

ということしか言っていないんです。

「これは性同一性障害を扱った歌だ」ということを、中さんは明言はしていませんよね?

そのように考えていくならば、『yes』のインタヴュー内容と、かすみさんがお知らせくださったインタヴューのあいだには、実は一つの共通項が生まれます。

つまり、「中村中は、自分の曲を一方的に解釈されることを、頑なに拒んでいる」ということです。

FM横浜のインタヴューにおける中村 中さんの発言は、確かに『yes』のインタヴュー内容とは矛盾している(ように見える)んですが、「リスナーの一方的な曲解釈に対して『それは違う』と述べている」という点では、実は全く同じなんですよね。

だから、これはもう単なる憶測でしかないんですが、たぶん中村 中さんは、自身がMTFであることを告白されたことで、自分の曲があれやこれやと先入観をもって解釈されているのではないか、とナーバスになっているんじゃないか? という気がするんです。

そのナーバスな状態の現われが、インタヴュー内容の矛盾(に見えるような物言い)に繋がっている、と。

そういうふうに解釈することも、まあ、あながち不可能ではないですよね?(^^

そういうふうに考えたほうが、「どっちの発言が正しいんだろうか?」と悩むよりも、幾分かスッキリすると思うんですが、かすみさんはいかがでしょうか?(^^

たぶん、中さんの発言内容を追っている我々の側でも、「性同一性障害をオープンにして音楽活動をしている人の心理はどのようなものか?」という好奇心が働いているせいで、中さんの発言に対して、必要以上に注意を傾け過ぎてしまっていると思うんです。

言い換えれば、我々の側でも、中さんの発言に対して、ナーバスになっている、ということです。

もちろん、これは自分に対する戒めでもあるんですが。

そのせいで、中さんの発言というのは、他の J-POP のアーティストに比べると、「言葉の独り歩き」が起きやすい状況になってしまっている、と思うんです。

そして、中さん一人の力では、そういった「言葉の独り歩き」を、コントロールできない状況下にあるような気がするんですね。

というのも、「言葉の独り歩き」というのは、ある意味では、発言者と受け手の側の「共同作業」みたいなものですから。中さん一人の意志だけではどうにもならないわけです。

だから、中さんのインタヴュー内容が矛盾していたとして、「どちらの発言が本当なの?」と真偽を判断しようとすると、それはたぶん、さらなる「言葉の独り歩き」を生むことになるんじゃないか、と感じます。

結局、リスナーの曲解釈を頑なに拒む中さんの側も、性同一性障害という単語に過剰に反応してしまう我々の側も、「言葉の独り歩き」を招き易い状態にあるんだろうなー、と思うんですよね。

そうした一種のパニック状態が冷却化すれば、たぶん中さんの発言にも、一貫性が生まれてくるんじゃないかという気が、私はします。


そして、2010年9月29日。

この日の朝日新聞の夕刊に、中村 中さんの記事が掲載されていました。月曜から金曜まで毎日掲載されている『ニッポン人脈記』の、シリーズ<男と女の間には>の第12回(最終回)で、中村 中さんのことが取り上げられています。

朝日新聞9月29日夕刊


このシリーズ<男と女の間には>のテーマは、GIDです。その第1回には、東京都世田谷区区議会議員の上川あやさんと、その親友でいらっしゃる野宮亜紀さんのお二人が登場されています。

さて、中村 中さんがシリーズの掉尾を飾った、9月29日の<男と女の間には>。これを読んで私が感じたのは、2006年9月16日のエントリで私がコメント欄に記した「一種のパニック状態」が、2010年現在、どうやらほぼ完全に冷却したようだ、ということでした。

シリーズ<男と女の間には>の第12回は、中村中さんが出演された2007年の『NHK紅白歌合戦』でのエピソードから始まっています。このときの中さんの心境を、この記事は次のように綴っています。

2010.10.02 Top↑
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