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きのう(9月14日)発売された『yes』第4号は、自分のアンテナにはこれまで引っかかってこなかったトピックや、あるいは自分の情報収集能力だけでは詳細がわからなかったことなどが、たくさん掲載されていて、ものすごーく得をした気分になりました。

この第4号にインタヴューが掲載されている、中村中(なかむら・あたる)のことを、自分はこれまで、まったく知りませんでした。どうも最新の邦楽の情報には疎いもので。




中村中さんは、エイベックスに所属のシンガー・ソングライターだそうです。今年の6月に、シングル「汚れた下着」でデビュー。そして今月の6日に、2枚目のシングル「友達の詩」をリリースしたばかり。

というわけで、「友達の詩」のヴィデオ・クリップを、中村中さんの公式サイトで、ぜひ視聴してみてください。

恋愛中毒 中村中 Official Website



――で、ですね。

その「友達の詩」が発売された直後の、9月11日のことなんですが。

中村中さんについて、以下のような記事が、『スポーツ報知』に掲載されていました。

中村中がドラマで性同一性障害カミングアウト

スポーツ紙の記事は、少し時間が経つとすぐにサーバから消えてしまうので、全文を以下にコピペしておきます。

 男性シンガー・ソングライターの中村中(あたる、21)が、日テレ系ドラマコンプレックス「私が私であるために」(10月10日、後10時)で、性同一性障害(GID)の悩みを抱える役柄に挑戦する。

 実は中村はGIDで悩んでいた。「歌をやっていく上で、GIDを考えて歌っているつもりはない。これからもそう」。色をつけて見られることを恐れ、6月のデビュー以降、障害については触れず活動を続けてきたが、GIDがテーマのドラマがあることを知り、立ち向かうことを決意。

 撮影を後日に控え、都内でレッスンに励む中村は「最初は打ち明けることに反対だった」と、迷いがなかったわけではないが「やり遂げるべきものなのかもしれないし、自分の中で何かが軽くなるのかもしれない。何かメッセージが伝わるんじゃないかと思う」。

 6日には2枚目のシングル「友達の詩」を発売したばかりの新人。演技の経験も皆無だが、人生をかけて問題に立ち向かうつもりだ。


(2006年9月11日06時02分 スポーツ報知)


――というわけで。

読んでもらえればおわかりのように、中村中さんは、この記事の中で「男性シンガー・ソングライター」扱いされているわけです。

記事の主旨そのものは、中村中さんの勇気を讃えているわけだから、これを書いた記者の人には、決して悪意はなかったんだと思います。

そう思いたいです。

ただ、これを書いた記者の方は、性同一性障害について正しい理解があったとは言いがたい。そのことは否めないと思います。



性同一性障害というのは、戸籍上(身体上)の性と、性自認(自分が認識している自分の性)が一致していない、という状態なわけです。

ということは、

戸籍上の「男性」という性に苦痛を感じている人を、「男性」として記事の中で紹介するのは、明らかに非礼なんですね。



おそらく、この記事を書いた方は、こう考えていたのではないかと思います。つまり、戸籍上の性が「男性」であるならば、たとえ性同一性障害であっても、その人はあくまで「男性」である、と。

でも、それこそが性同一性障害への「誤解」なんですね。まさしく。



この『スポーツ報知』の記事を取り上げて記事を書いているブログも、いくつか拝読しました。多くのかたたちが、性同一性障害に理解を示そうというスタンスで書いていらっしゃいました。

ところが。

そういったスタンスで記事を書いていても、結構多くの方々が、中村中さんのことを「男性」と紹介しているんですよねー。



たぶん、中さんがMTF(male to female)であることを読者にわかりやすく示そう、という意図で、そういう書き方をされたのだろうとは思いますが。

でも、それを示す必要が、この場合にはあったのかどうか。

結局、かなりの数の人が、性同一性障害のことをちゃんとわかっていないのでは? という気がします。



ちなみに、中さんがデビューしたころのBARKSの記事も、併せて紹介しておきます。

衝撃のシンガーソングライター中村 中、ついにデビュー

以下は、本文からの引用です。

20歳という若さにして、ただならぬ妖艶な雰囲気を振りまく彼女の名は、中村 中(ナカムラ アタル)。岩崎宏美に楽曲提供を行なうなど、ソングライターとしての実力はすでに立証済みの彼女が、6月28日に1stシングル「汚れた下着」でついにデビューを果たす。

子供の頃から歌うこと以外にほとんど興味を示さなかったという彼女。しかし、10代初めに自分の声に違和感を感じて人前で歌うことを嫌うようになり、その反動をピアノにぶつけたことがきっかけで、音楽の道へと入っていった。そんな彼女の持ち曲は、デビュー前にして100曲以上。そして長い時間を経て、ついに自らの声で歌うことを決意し、今回デビューをするに至った。そんな彼女の第1弾シングルは、“浮気”をテーマに歌った曲「汚れた下着」。独特な質感を持つ彼女のセンスは、衝撃を与えるに違いない。(以下、略)


この記事を読めばわかるとおり、カミングアウトする前は、中さんは無条件で「彼女」という代名詞を使われていたわけです。

ところが。

性同一性障害をカミングアウトしたとたん、『スポーツ報知』の記事のように、いきなり「男性」扱いになってしまうわけです。(まあ、この2つの記事を書いた人は同一のかたではありませんが。)



繰り返しますが、戸籍上の性が、性を自認する上での苦痛となっている、それが性同一性障害なんです。それに理解を示そうとするのであれば、中さんのことを戸籍上の性に従って「男性」と紹介するのは、非礼に当ります。

そのことに、もっと多くの人が気づいてほしいと思います。






自分がこのように攻撃的な書き方をすると、これを読んだ人は、中村中さんの性について語るのを、避けるようになるかもしれません。

でも、それもちょっと違うんです。

以前、シンガー・ソングライターのKAB.が、FTM(female to male)であることを告白したとき、音楽ジャーナリズムの大半は、KAB.の真摯な告白を黙殺しました。

そしてKAB.のファンの人たちも、KAB.がFTMであるという話題に触れるのを、今現在も、ずっと避け続けています。



KAB.に限らず、アーティストが自身の同性愛や性同一性障害を告白すると、以前からのファンは、その事実を「触れてはいけないタブー」にしてしまう傾向が、特に日本人は、非常に強いんです。

話は少し横道に逸れますが、米良美一さんが暴行事件で逮捕されたとき、米良さんのファンの女性のかたが運営されていたファンサイトで、管理人のかたが、ものすごくヒステリックに、

「米良さんはオカマなんかじゃありません!」

とトップページに書いていたことがあったんです。

しかも、わざわざフォントサイズを上げて。

それを見て私がビックリしたのは、「この人にとってショックだったのは、米良さんが逮捕されたことではなく、ゲイだったことなんだなー」、ということでした。

あんまりビックリしたんで、最後には笑えてきましたが。



まあ、斯様にして、日本の人は、性同一性障害や同性愛といった性の問題から、目を背けたがります。



どうしてそのような態度をとってしまうのかについては、さまざまな理由があるとは思います。

たとえば、差別的な意識は持っていないんだけれども、だからといって性同一性障害や同性愛についての詳しい知識もあるわけではないから、それらについて迂闊に語ってしまうと、「それは差別発言だ」などと非難されそうで、それが怖くて、あえて自分から語ることはしない、とか。

あるいは、性同一性障害や同性愛にあからさまに嫌悪を示すのは良くないという認識はあっても、それらの存在に肯定的というわけでもないから、アーティストの告白をあえて無視して(それが自分の好きなアーティストであっても)、性同一性障害や同性愛の事実そのものを、なかったことにしてしまおう、とか。



でも。

アーティストが性同一性障害や同性愛を告白した場合、もしもそのアーティストのことを本当に愛しているのであれば、「こうあってほしい」というファンにとっての理想像をそのアーティストに押し付けるのではなく、まずはそのアーティストの告白を受け入れて、そこから性同一性障害や同性愛を理解するように努めてほしい、と私は思います。

なぜなら、アーティストの性同一性障害や同性愛の告白は、そのアーティストからの「問題提起」でもあるからです。

もちろん、その告白の後先には所属レーベルのスタッフたちの思惑も絡んでいたりするので、それほど単純な問題ではないんだろうとは思いますが。

ただ、少なくとも言えるのは、現状の日本(に限らず、世界各国)では、芸能人が性同一性障害や同性愛を告白するのは、現実問題として、マイナス面のほうが大きい、ということなんですよ。にもかかわらず、あえてそれをするということは、告白の動機が何であれ、「性についての社会の意識に、一石を投じる」という性質が、自ずと備わってくるものなんです。

アーティストの告白が、音楽ジャーナリズムやファンから黙殺されたとしたら、それはつまり、アーティストがわざわざリスクを負ってまでして投じた一石を、メディアもファンも、見て見ぬふりをした、ということに、なりはしないでしょうか。

言葉は悪いですが、つまりは「逃げの姿勢」です。



結局のところ、性同一性障害や同性愛について語ることを避けてばかりいるから、それらについての誤解がいつまで経っても解けないんじゃないか、と思います。特に日本では。

たとえば、外国語を身につけようと思ったら、実際に声に出して話してみなければ、いつまで経っても上達しないでしょ?

それと似たようなものだと思うんですよ。

関心はあってもそれについて語ることをしないから、いつまで経っても誤解や先入観が解けないのではないでしょうか。



中村中さんのMTFの告白については、まだ中さんが新人なので、メディアからもリスナーからもそれほど大きく扱われていないのが現状だとは思います。

ただ。

これから先、中さんのことをメディアやリスナーがどう語るのか(あるいは語ろうとしないのか)、その部分に、日本の社会の、性に対する意識の成熟度が、如実に表れるだろう、ということは言えると思います。



私は、『スポーツ報知』の記事の書き方を、「性同一性障害について、正しい理解があったとは言いがたい」とは書きました。しかし、中さんの告白を記事として取り上げたこと自体は良かったと思っています。

なぜなら、記事として取り上げることをしなければ、中さんからの問題提起を黙殺することになってしまうし、こうして語ることをしなければ、性同一性障害への社会からの誤解を正すこともできないからです。

誤解を正すためには、誤解している側とされている側が、ちゃんと言葉に表して語り合うしかないんです。

もちろん、いくら語り合っても誤解を解こうとしない頑なな人も、いることはいます。

が、そういう人たちは、最初から差別意識をむき出しにしているケースが大半です。

そうではなく、「理解したい、解かり合いたい」と少しでも思っているかたたちがいらっしゃるのであれば、そのことをちゃんと言葉に出して語ってほしいと、私は思います。

そして、言葉を積み重ねていく中で、理解を深めていってほしいと思います。






ちなみに。

『yes』第4号に掲載されているインタヴューの中身ですが。

さすがに『yes』だけあって、中さんのことを「彼」とか「彼女」とかいった代名詞で表している箇所は、一箇所もないんです。

ホントに。

そして、このインタヴュー記事の中では、「性同一性障害」という言葉も、実は一切使われていません。

それというのは、たぶん、このインタヴューの中で、中さんが自身のことを、「私には、性がないんです」と述べているからだと思います。

戸籍上は男だが、自分ではそれに違和感を持っている。“男”という自覚はないし、“女”という実感もない。


だからこそ、この『yes』第4号の表紙では、中さんのインタヴューに『nonsexualを告白』という見出しをつけているんです。

実に見事な記事の作り方であり、そして素晴らしい編集方針です。



そして、このブログのエントリでは、中さんの音楽はそっちのけで、性の話題ばかり書き連ねてしまったんですが。

「友達の詩」のヴィデオ・クリップを視聴されたかたならおわかりのとおり、実に素晴らしい曲を作り、実に素晴らしいヴォーカルを聴かせるアーティストなんですよ、中村中という人は。

『yes』のインタヴューでは、中さんは「友達の詩」について、以下のように述べています。

この曲は、ずっと好きなのに友達にさえなれなかった相手のことなんですよね。だから、友達と呼ばれるだけでも上出来かもしれないねっていう曲です。初めて、“この人好きだな”って思った人と、離れなきゃいけなかった時期に、書き始めたんです。中3だったんですけど、5年くらい好きだった人で。この人を好きになることが、おかしいんだなっていう自覚が、少しずつ生まれて来た


最初に書いた曲だから思い入れはあるけど、一番大事というわけではない。でも大事かどうかより、絶対つきまとうんだろうな、この曲、と思ってる。特別なんでしょうね。嫌いでも悪くても、特別。ホントに説明できないんですよね、歌詞の韻を踏むとか、そんなこと全くできなくて、思ったことを書いただけだから。あんまり色々言われると、この曲が嫌いになっちゃいそう(笑)。実は、いい思い出が、あんまりないんです。だから、この曲が出来て、何も救われていない。ただ、自分のオリジナルができたということで、多少の自信になった


ひとつ言っておきたいのは、曲に“共感”されたくはないんです。曲を褒めてもらうのはいいんですけど、“共感しました~”なんて言われると、“じゃ私と同じ気持ちになってから言ってよ!”って思う


共感されたくはない、とのことですが。

「うわー、あたしもこういう気持ちになったことあるー」と感涙するリスナーは、きっと多いことでしょうね(笑)。

自分も初めて「友達の詩」を聴いたとき、そう思いましたから(笑)。



今の自分は、ノンケに片想いするのは徒労以外の何物でもないと思っている(笑)、ある意味ではベタベタのゲイなので、「友達の詩」を聴いてもリアルタイムでザクザク刺さってくる感じはあまりなかったんだけど、もしも自分がノンケに片想いをしていた10年前とかにこの曲に出会っていたら、まず間違いなく、ボーボーと大泣きしていたと思う。

自分は、中島みゆきさんとかユーミンのような、日本のゲイ・イコンの楽曲に、それほど深く馴染んでいるわけではないんだけど、そんな自分でも何となくわかることというのは、みゆきさんとかユーミンが日本のゲイから親しまれている理由と同じものが、中さんの「友達の詩」にはある、ということです。(事実、中さんは、荒井由実時代のユーミンやみゆきさんから影響を受けているそうです)



つまり、「友達の詩」に感涙するリスナーは、中さんの個人的な体験に共感しているわけではなく、

あくまでも、自分の体験に照らし合わせて涙しているわけです。



中さんの曲は、たとえ中さん個人の体験から生じた感情を表したものであっても、リスナーの一人ひとりが、自分の体験に置き換えて感情移入できるような作りになっていると思うんです。

それはつまり、ノンセクシュアルであることに悩み苦しんだ中さんの感情が、実は決して特殊なものではなく、本当は普遍的な、「人間としての感情」であることの証左、なのではないでしょうか。



ノンセクシュアルであるがゆえに抱いた悲哀が、性的指向や性の在り方の違いを超えて、普遍的な「人としての感情」として描かれている。

それは素晴らしいことだと思うんです。


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2006.09.16 Top↑
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