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前回のエントリに引き続き、今回もアジスについての話題です。

まずは、前回紹介して好評だった、この曲のヴィデオ・クリップからどうぞ。




"No Kazvam ti stiga"
(2004)




前回では、アジスの音楽性については詳しく触れることができなかったので、今回はその辺りを掘り下げていきます。

まず、アジスが歌っているジャンルについて。

アジスの属しているジャンルは、チャルガと呼ばれています。これはブルガリア固有のポップ・ミュージックなんだそうです。

ただ、ブルガリア固有ではあるんですが、そのルーツは、バルカン地方全域、特に隣国のトルコのリズムに強く求められているんだそうです。

どことなく中東的な雰囲気が漂っているのは、それが理由です。

トルコの伝統音楽に、西洋のロックやポップのエッセンスが加えられた、ブルガリアのフォーク・ポップ。それがチャルガです。



ブルガリアの民俗文化を背景にしたものではない以上、反チャルガを唱えるブルガリアの人々も、それなりの数で存在しているようです。

The Worldというニュース・サイトの記事の中では、そのような人々に対してアジスが反論した、次のような発言が紹介されています。

あんたらは、バルカン地方に住んでるんでしょ? ジプシーの国のど真ん中にいるんでしょ? だったら何を聴くっていうんだい? ヘビメタかい? じゃあなんでヘビメタを聴くの? ちっともわかってないね。それはあんたらの音楽じゃないだろ? じゃあラップ? そんな文化は持ってないだろ? そういう歴史をあんたらは持ってないじゃないか。


アジスのヴィデオ・クリップを観てお気づきになったかたもいらっしゃるかと思いますが、アジスの肌は、明らかに日焼けとは違う、浅黒い色をしています。

彼はロマ人、いわゆるジプシーの血を引いています。

ジプシーは、実はブルガリアにおける少数民族です。

アジスは、ゲイ・カルチャーだけにこだわっているわけではないんです。

ジプシーという己のルーツにも、強くこだわっているアーティストなんです。



チャルガの受容は、クラブ・シーンが中心のようです。

伝統音楽をベースにしたポップ・ミュージックというと、「日本で言えば演歌のようなもの?」と思われるかたも、いらっしゃるかもしれません。しかし、こうした種類の音楽は、むしろ演歌のような受容のされ方のほうが珍しいようです。クラブ・シーンで支持されるほうが、世界的には主流です。

たとえば、ずっと以前の大ヒット曲に、「ランバダ」とか「恋のマカレナ」なんてのがあったでしょ?

これらのヒット曲は、まず最初にクラブ・シーンから人気に火が着いて、世界中で大ヒットしました。

伝統音楽は、元来が民俗舞踊と密接な関係にあるものです。したがって、それらが現代のダンス・ミュージックと結びつき、クラブ・シーンでヒットするという流れも、ある程度は必然的なものなんですね。

チャルガのアーティストは、セクシーな女性シンガーが主流です。これもまた、クラブ・シーンとの関わりによるものが大きいでしょうね。セクシーさを売りにした女性シンガーって、大抵はダンス・ミュージックを歌っているでしょ?

そして、アジスがこうも大胆に、ゲイのエロティシズムを前面に押し出しているのも、チャルガがクラブ・シーンを中心に受容されていることと、無縁ではないはずです。

何故なら、ゲイ・カルチャーとクラブ・カルチャーは、非常に密接な間柄にあるから。

チャルガにはアンチも多いという話を、私は先に述べました。チャルガをクラブ・ミュージックの一種と考えると、チャルガが嫌われている真の理由が、見えてくるような気がします。

たとえば、ロックやクラシック音楽の熱心のファンのかたたちのあいだには、クラブ・ミュージックを毛嫌いしているかたも、多くいらっしゃいますよね?

それって、理屈が先にあるのではなくて、要は、生理的・感覚的な反発だと思うんですよ。

音楽というものは、もともとが感覚に訴えかけてくるものでしょ? だから、好きになるのも嫌いになるのも、生理的・感覚的な理由であって全然構わないはずなんですよ。

なのに、そこにいろいろと説明の言葉をくっつけて、毛嫌いの理由を正当化しようとするかたもいらっしゃいます。

しかし、それらは結局、後付けの理屈でしかないと思うんですよ。

チャルガに対する反発も、これと同じではないかという気がします。

ブルガリアの伝統文化が云々という話は、要するに、全て後付けの理屈でしかないんだろうなー、と。

それらの人々は要するにクラブ・カルチャーが嫌いなだけなんだろうなー、と。



さて。

次は、アジスという存在が、ブルガリア国内でどのように受容されているかについて。

こんなにもゲイゲイしいアーティストが、国民的なスーパースターだなんて、ブルガリアという国は、なんてゲイに優しい国なんだろう!

……と、私も最初は思ってました。

でも、どうやらそういうわけではないみたいです。

確かにアジスは、ブルガリアで最も人気のあるスーパースターの1人です。

が。

アジスを嫌っている人々も、それと同じくらいの数でいるようです。



たぶん、アジスの支持のされ方というのは、マドンナのそれと、近いものがあるように感じます。

マドンナは世界的なスーパースターです。が、その一方で、マドンナを毛嫌いしている人たちも、同じくらいたくさんいるでしょ?



マドンナが世間の人たちから嫌われている主な理由の一つには、人々が無意識のうちに「それはやってはいけないこと」と思い込んでいること、つまりタブーを、意識的にどんどん破っているからです。

いちばん端的な例は、1992年のアルバム『Erotica』と、写真集『Sex』だと思います。

これらの作品は、コアなファンからは支持されたものの、ソフト・ユーザー層からは大反発を喰らいました。これ以降しばらくのあいだ、マドンナは、低迷を余儀なくされます。

しかし一方で、これらの作品によって、後進の女性アーティストたちの「性の表現の可能性」が、大きく押し広げられたのは、紛れもない事実です。

それ以前にも、たとえば「Like A Virgin」の発表当時、ウエディング・ドレスを着て、スカートの中も露わにステージを転げ回るマドンナのパフォーマンスに、世間の人々からの批難が集中しました。

しかし、現在では、後進の女性アーティストたちが、それ以上に過激なパフォーマンスを行なっても、何ら批難は浴びません。

それはなぜか。

マドンナという先例があるからです。

一度でもマドンナのパフォーマンスを観たことのある人の目には、後進の女性アーティストたちが繰り広げる性的表現は、「どこかで観たことのある光景」「既に見慣れた光景」として映るのです。

マドンナの表現の、真の目的は、そこにあります。

先例がありさえすれば、人々はそれを、「やってはいけないこと」だとは思わない。

つまり、良識派を自認する世間の人々が、『Erotica』や『Sex』のような作品にどれだけ目くじらを立てようとも、それらの表現を人々が実際に観たり聴いたりしたという「既成事実」が出来上がった時点で、既にマドンナの企図は成就していたんです。

今のポップス・シーンを見れば、そのことは納得してもらえると思います。



マドンナについての話が長くなってしまいましたが。

アジスがブルガリアで実践していることというのは、マドンナがこれまでにやってきたことと、非常に性質が近いのではないか? と私は感じます。

そして、ここで我々が決して見落としてはいけない重要なことというのは、

ブルガリアという国は、社会主義国家から民主主義国家に移行して、まだ20年にも満たない国である

ということです。

つか、かくいう私も、最初はすっかり見落としていたんですけどね。(大汗)

現在のブルガリアは、旧来の社会主義の価値観と、新しい民主主義の価値観が、そのまま世代間のギャップとして大きく横たわっている状態にあります。

ということは。

そのような状態の中にあって、アジスという存在は、

「ブルガリアには表現の自由があるのだ、今のブルガリアは、ここまで自由に表現しても構わないのだ」

ということを、ブルガリアの人々に示しているのではないか。

私には、そんなふうに思えます。

そして、それを観るブルガリアの人々も、アジスのことを、

「ブルガリアの表現の自由を体現している存在」

として受け止めているのではないでしょうか。

極端な言い方をすれば、アジスという存在は、おそらくは、「ブルガリアの民主主義の象徴」でもあるんです。

アジス自身、先に紹介したThe Worldの記事の中で、次のように述べています。

一面では、僕は民主主義の顔でもあるんだ。僕が画面に出ているのを観て、人々は、この国には自由があるんだな、と理解する。たくさんの人たちが、僕を画面から外そうとしたし、追い出そうとした。僕のやっていることに反発してるんだよ。それが普通だとは思う。実に長いあいだ、この国は共産主義だったんだからね。多くの人にとっては、まだ共産主義のほうが普通なんだよ。

ブルガリアの人たちは、僕のことを好きじゃないふりをしているんだ。そんなの信じられないよね。僕がもらったファン・レターや電子メールの中で、どんなことが打ち明けられているか、想像できるかい? 僕の新しいヴィデオ・クリップが観たくて、早く家に帰ってテレビを点けるのが待ちきれないんだけど、それを友達に知られるのが怖い、っていうんだよ。何でだろうね? 僕にはわかんないよ。僕を観るのは普通のことだよ。だって、僕はショーに出てるんだもの!


これらのことを考えると、アジスが2005年に政界進出を計ったという話も、実は容易に納得ができます。

アジスは、性的少数者の代表であると同時に、ブルガリアの少数民族である、ロマ人の代表であり、英雄でもあるんですね。社会主義から民主主義に移行して20年に満たないブルガリアには、そうした少数派の人々が向かい合い、闘っていかなくてはいけない問題が山積されている、ということなんです。



社会主義の価値観の中で生きてきた人々の目には、アジスの表現は、正視に耐えるものではないでしょう。それは仕方のないことです。マドンナの例でも述べているように、「表現の自由の境界を押し広げる」ことを企図しているアーティストは、常に批判を浴びるものです。

しかし、マドンナがそうであったように、「既成事実」を作ることに成功した時点で、アジスの企図は成就されているはずです。



アジスが意図的にタブーに挑んでいるのは、これから紹介するヴィデオ・クリップを観ていただければ、かなり明瞭に理解してもらえるのではないかと思います。

ブルガリアの宗教は、ブルガリア正教が国民の80%以上を占めているそうですが、男性同士が教会の中でメイク・ラヴを演じていたり(しかも、そのうちの1人は司祭)、さらにはアジス自身がまるでイエス・キリストのように十字架にかけられたり、などという映像は、これはもう、タブーへの挑戦以外の何物でもありません。(血が苦手な人は気をつけてくださいね)



"Haide, pochvai me"
(2004)




この「Haide, pochvai me」や、冒頭で紹介した「No Kazvam ti stiga」が収録されている2004年のアルバム『Kraliat』のジャケットは、前回のエントリでも紹介しているように、マドンナの1987年のアルバム『True Blue』を模しています。

Azis / Kraliat


これというのは、単なるパロディというよりも、タブー破りを続けることによって女性アーティストの表現の自由を拡張してきたマドンナに対する、アジスからのリスペクトの表明のように、私には思えます。

マドンナは、現代のアメリカン・ドリームの体現者であることでも有名ですが、一方のアジスは、自らを「ブルガリアン・ドリームの体現者」と見做しています。

僕は、ブルガリアン・ドリームなんだ。この国では、アメリカン・ドリームはアメリカでしか起こらないものと思われてる。僕は、ごく単純な、どこにでもいる普通の田舎者が都会にやってきて、自国でスーパースターになったという、その生きた見本なんだよ。




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2007.03.31 Top↑
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