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No. 20
Soft Cell / Tainted Love
(1981)

マーク・アーモンドは、1981年、デイヴ・ボールとのテクノ・ポップ・デュオ、ソフト・セルとして、メジャー・レーベルからデビューを果たしました。当時のイギリスは、ニュー・ロマンティックの最盛期。男女を問わず、中性的な美しさをもつアーティストたちがもてはやされる中にあって、マーク・アーモンドは時代のニーズに適った存在でありつつも、他のニュー・ロマンティックのアーティストたちと比べると、明らかに異質でした。

一言で言ってしまえば、ソフト・セルは単なる「耽美」ではなく、「頽廃」を歌っていたのです。

ソフト・セルの最初の大ヒット曲「Tainted Love」の邦題は「汚れなき愛」となっていますが、これでは意味が全く逆で、曲の中で実際に歌われているのは、いけないと思いながらも愛欲に溺れていく青年の心情です。全英では見事にNo.1を獲得、全米でも8位まで上昇する大ヒット曲となりました。

中性的なイメージを前に出しているアーティストは、そこから大衆が性的指向をあれこれと憶測するのを避けようとして、むしろセックスの匂いを排除しようとします。ところがマーク・アーモンドは、中性的なキャラクターでありながら、テーマの多くをセックスに求めていました。だからこそ、マーク・アーモンドの「性の曖昧さ」は、彼がトランスヴェスタイト(女装)のアーティストではないにもかかわらず、同時代のニューロマ勢よりもさらに際立っていました。

まあ、要するに、俗な意味での「オカマっぽさ」が、他と比べて際立っていた、ということなんですが。

ただ、実際問題として、ここまで「オカマっぽさ」を堂々と隠さずにパフォーマンスに取り入れていたアーティストというのは、マーク・アーモンド以前にはいません。

たとえばクラウス・ノミのように、人間以外のキャラクターを演じることによって、セックスの生臭さを薄めたり、あるいは後のボーイ・ジョージのように、題材としてのセックスは回避するなど、中性的なイメージのアーティストは、自身の「オカマっぽさ」を無効化するための何らかの工夫を凝らしているのが普通だったのです。

マーク・アーモンドは後にカミングアウトしますが、彼が実践した、「セックスを歌うことによって、かえって性が曖昧になっていく」という逆説は、1983年にデビューしたザ・スミスのモリッシーに継承されていきました。

"Tainted Love"
汚れなき愛
(1981)




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No. 19
Culture Club / Do You Really Want To Hurt Me
(1982)

ボーイ・ジョージ率いるカルチャー・クラブの、記念すべき最初のヒット曲です。全英でNo.1、全米でも最高2位まで上昇しました。

ボーイ・ジョージのメイクと髪型は、世間からはド派手だと思われがちですが、少なくとも人気絶頂時のボーイ・ジョージのメイクと髪型は、ファンの女の子たちが真似をして、街を歩くことのできる、尋常なレベルのものでした。'70年代のデヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンの衣装を真似ても、それはオサレにはなりません。あんな格好をして街を出歩くのはやばいです。しかし、人気絶頂時のカルチャー・クラブのコンサートには、CCC(カルチャー・クラブ・クローンの略)と呼ばれる、ボーイ・ジョージのメイクや髪型を真似た女の子たちが、大挙して押しかけていました。

ボーイ・ジョージの画期的だった点は、ここです。

男性アーティストのメイクが、デヴィッド・ボウイやクラウス・ノミのような「性別不在の宇宙人」の表象であったり、あるいは元祖ニューロマ男のスティーヴ・ストレンジのような、まるで顔面をキャンバスにしたかのような絵画めいたものでもなく、ファンの少女たちが真似をして街を歩くことのできる、日常的なレベルのものになった、ということ。

言いかえれば、それはほぼトランスヴェスタイト(女装)の領域にまで踏み込んでいるということでもあるんですが、しかしそこから生じるセックスの匂いというものを、ボーイ・ジョージはその歌唱力と良質のポップ・ソングによって拭い去り、「トランスヴェスタイトがお茶の間のアイドルになり得る」ということを実証したのです。

つまり、ボーイ・ジョージという存在は、彼がゲイであることをカミングアウトする以前から、トランスヴェスタイトという性的少数者の可視化に貢献していたわけです。

実際のボーイ・ジョージはトランスヴェスタイトではなく、単なるゲイなので、彼が女装に近い扮装をしてスターになったことに対して、「ゲイへの誤解を広めている」という批判も少なくないのですが、「Do You Really Want To Hurt Me」の大ヒットを通じて彼が果たした「性的少数者の可視化」への貢献は、誰にも否定することができないはずです。

カルチャー・クラブの詳しいバイオグラフィーと、「Do You Really Want To Hurt Me」のヴィデオ・クリップは、こちらでどうぞ。
カルチャー・クラブ バイオグラフィー(Queer Music Experience.)



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No. 18
George Michael with Queen / Somebody To Love
(1992)

1992年に開催された、フレディ・マーキュリー追悼コンサートの出演時、ジョージ・マイケルは、世間にはゲイであることをカミングアウトしてはいませんでしたが、アンセルモ・フェレッパという衣装デザイナーの男性と交際していました。アンセルモは、ジョージ・マイケルにとって初めての、同性の恋人でした。

しかし、アンセルモはHIV陽性でした。

それを聞かされたジョージ・マイケルは、以後はHIV撲滅のためのチャリティ活動に、大きな力を注いでいくことになります。

そして、フレディ追悼コンサートのステージでは、クイーンのヒット曲「Somebody To Love」を、亡きフレディに捧げるだけではなく、当時既に発症していたアンセルモへの熱い想いも込めて、熱唱しました。

そのライヴ・パフォーマンスは、EP盤『Five Live』にまとめられ、翌1993年5月、全英でNo.1、全米で最高30位を記録しました。

残念ながら、アンセルモ・フェレッパは、その2ヶ月前の1993年3月に、息を引き取っています。

ジョージ・マイケルの詳しいバイオグラフィーと、「Somebody To Love」のヴィデオ・クリップは、こちらでどうぞ。
ジョージ・マイケル バイオグラフィー(Queer Music Experience.)



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No. 17
Dead Or Alive / You Spin Me Round (Like A Record)
(1985)

'80年代初頭にイギリスやアメリカを席捲したニュー・ロマンティック・ムーヴメントは、ロック/ポップスの世界における視覚上の性差を無効にしました。その次の段階として、イギリスでは1983年から1984年にかけて、同性愛についてハッキリと言及するポップ・グループが続々と登場しました。それがブロンスキ・ビートであり、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドであり、ザ・スミスであり、そしてデッド・オア・アライヴでした。

1983年にデビューした彼らは、1985年にシングル「You Spin Me Round (Like A Record)」が全英No.1となり、一躍世界的なスターとなりました。全米でも11位まで上昇したこの曲は、'80年代のヒット曲を集めたコンピレーション・アルバムには必ずといっていいほど収録される、80'sポップスの定番曲です。

"You Spin Me Round (Like A Record)"
ユー・スピン・ミー・ラウンド
(1985)


デッド・オア・アライヴの詳しいバイオグラフィーは、こちらでどうぞ。
デッド・オア・アライヴ バイオグラフィー(Queer Music Experience.)



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No. 16
Melissa Etheridge / Come To My Window
(1994)

このTOP100のNo.32の「I'm The Only One」に続き、メリッサ・エスリッジの1993年のアルバム『Yes I Am』から翌年になってシングル・カットされたのが、この「Come To My Window」です。

メリッサのカミングアウト後の初めてのシングルということもあり、この曲はロック・シーンからの大きな注目を集め、メリッサにグラミー賞(最優秀女性ロック・ヴォーカル)をもたらしました。全米で最高25位を記録した、彼女の代表曲です。

"Come To My Window"
カム・トゥ・マイ・ウィンドウ
(1994)




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No. 15
美輪明宏/ヨイトマケの唄
(1966)

美輪明宏が「日本のシンガー・ソングライターの元祖」であることは、今日では広く知られていることだと思います。そして、同性愛を公にしている芸能人の元祖であることも知られています。

美輪明宏が同性愛を公にしたのは、正確な時期を自分は知らないのですが、1957年に「メケ・メケ」でデビューして、「シスターボーイ」と騒がれていたころには、雑誌を通じてカミングアウトしていたそうです(日本語版ウィキペディアの記事による)。つまり、1950年代の末には既にカミングアウトしていたことになりますが、その時代にメディアを通じて同性愛をカミングアウトしていたアーティストは、世界中で、美輪明宏ただ1人だけだったんじゃないでしょうか。

もちろん、同性愛が人々のあいだでうわさになっていた有名人は、当時からいたと思います。1950年代にアメリカのTV界でスーパースターとなっていたピアニストのリベラーチェは、当時のゴシップ雑誌やタブロイド紙から、同性愛者として書きたてられていました。しかしリベラーチェは、同性愛者であることを、最期まで決して認めませんでした。リベラーチェがタブロイド紙を相手どって名誉毀損の訴えを起こしていたのとほぼ同じころに、しかし美輪明宏は、既に同性愛を公言していたのです。

私は世界中のありとあらゆる国のショービジネスの歴史に通暁しているわけではないので、美輪明宏が「世界初のオープンリーのLGBTアーティスト」であるかどうか、ハッキリとしたことは言えません。が、少なくとも、ゲイ・カルチャーの先進国であるアメリカのアーティストよりもはるかに先行して、1950年代末には既に美輪明宏は、「オープンリーのLGBTアーティスト」であったのです。それは確かです。

「ヨイトマケの唄」がレコードとして発表されたのは、1966年。ゲイについて歌った曲ではありませんが、不当な差別に立ち向かう勇気と、その勇気の源こそ愛であるということを歌っているこの曲の普遍性の高さは、まさに美輪明宏ならではのものだと思います。

"ヨイトマケの唄"
(1966、映像の年代は不明)




美輪明宏の世界 美輪明宏の世界
美輪明宏 (2006/11/08)
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No. 14
Queen / We Will Rock You
(1977)

クイーンの1977年のヒット曲で、「We Are The Champions」との両A面シングルとしてリリースされました。全英で最高2位、全米では最高4位を記録しています。クイーンのヒット曲によって構成されたミュージカルのタイトルにも用いられているほど、彼らの代表曲としてあまりにも有名なこの曲は、他にもスポーツの試合などでアンセムとして頻繁に使用されています。



世界に捧ぐ 世界に捧ぐ
クイーン (2001/11/21)
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No. 13
Village People / Macho Man
(1978)

1977年にシングル「サンフランシスコ」でデビューした当時のヴィレッジ・ピープルは、ゲイ・ディスコをターゲットにしたグループでした。当時のヴィデオ・クリップやレコード・ジャケットに登場しているダミーのメンバーは、ゲイ・ポルノのコルト・スタジオの専属モデルたちです。しかし、そうしたフェティッシュの部分にアピールしようとしたからこそ、逆にゲイのオーディエンスからは、ゲイを莫迦にするなという反発を喰らいます。

そこで、今度はゲイ以外の層をターゲットにしたところ、これが功を奏します。かくて、ヴィレッジ・ピープルのセカンド・アルバム『Macho Man』のタイトル曲「Macho Man」は、全米のヒット・チャートで最高25位を記録する、スマッシュ・ヒットとなりました。

この曲を皮切りに、ヴィレッジ・ピープルの快進撃が始まります。

ヴィレッジ・ピープルの詳しいバイオグラフィーと、「Macho Man」のヴィデオ・クリップは、こちらでどうぞ。
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ベスト・オブ・ヴィレッジ・ピープル ベスト・オブ・ヴィレッジ・ピープル
ヴィレッジ・ピープル (2006/01/25)
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No. 12
Bronski Beat / Smalltown Boy
(1984)

ブロンスキ・ビートの1984年のデビュー曲です。フェミニンな装いや、派手なメイクを施した男性アーティストが圧倒的にもてはやされていた、1980年代前半のイギリスで、ブロンスキ・ビートの3人のヴィジュアルは、それこそどこにでもいそうな、ごく当たり前の青年のそれでした。

だからこそ、そんな彼らが、自分らはゲイであると明言し、ゲイであるせいで味わわなければならない悩みや苦しみ、そして差別への怒りを歌うということが、当時のイギリスの人々にとっては、大いに衝撃的だったのです。しかも、彼らの音楽は、オープンリー・ゲイ・アーティストの先駆けだったトム・ロビンソンのようなパンク・ロックではなく、主流のダンス・ポップでした。

「Smalltown Boy」は、全英のヒット・チャートで最高3位を記録する、大ヒット曲となりました。そして、彼らはワン・ヒット・ワンダーで終わることなく、その後も次々と全英ヒット曲を放ち続けていきます。

"Smalltown Boy"
スモールタウン・ボーイ
(1984)


ブロンスキ・ビートの詳しいバイオグラフィーは、こちらでどうぞ。
ジミー・ソマーヴィル バイオグラフィー(Queer Music Experience.)



The Very Best of Jimmy Somerville The Very Best of Jimmy Somerville
Jimmy Somerville (2002/11/05)
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No. 11
Queen / Bohemian Rhapsody
(1975)

クイーン初の、全英No.1ヒットです。ロックの概念には収まり切らない型破りな構成と、世界初のプロモーション・ヴィデオなど、さまざまな革命的手法が持ち込まれた、ロック史上最も重要な曲の1つです。

フレディが亡くなった1991年に、この曲はリイシューされ、再び全英でNo.1となったほか、全米でも2位まで上昇しました。

"Bohemian Rhapsody"
ボヘミアン・ラプソディー
(1975)




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残るはあと10曲。続きは、また後日。


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2007.04.18 Top↑
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