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No. 5
Queen / We Are The Champions
(1977)

一般向け(っつー区分もどうかとは思いますが)に書かれているクイーンの解説書を読んでいると、フレディ・マーキュリーのヴィジュアルの変遷について、ときおり「ん?」と引っかかることがあります。

みなさんもご存知のとおり、フレディのステージ衣装や髪型は、年を経るごとに大きく変化していきました。

初期は、長髪にヒゲなしの、王子様ルック。

中期は、白と黒のツートーンのタイツ(というか、レオタード?)。

後期は、レザーのアイテムを中心に、ヒゲと短髪。まあ、いわゆる「イカニモ系」です。

で。

フレディが後期になってから「イカニモ系」に変貌した理由について、一般向けのクイーンの解説書を読んでいると、

「フレディが自身の同性愛傾向に、徐々に目覚めていったことの現れ」

とかなんとか記されているんですよ。

……徐々に目覚めていった?

んなわけないでしょう。

フレディは、最初からゲイです。

確かに、クイーン初期のフレディ・マーキュリーは、女性ともお付き合いがありました。でも、だからといって、フレディが自身の同性愛に気がついていなかったはずがない。

だって、そもそもクイーンというバンド名自体が、「オネエのオカマ」を指す言葉なんだもん。

だから、フレディ・マーキュリーのヴィジュアルの変遷は、彼が同性愛に「徐々に目覚めていった」ことなんかの表れではない。

そうではなく、「自身のゲイ的センスを、徐々に徐々に、目に見える形で少しずつ解放していったことの表れ」、と捉えたほうが、より自然で正確です。



さて、1977年の大ヒット曲「We Are The Champions」のころのフレディのヴィジュアルは、白と黒のツートーンのタイツ姿です。

このタイツ姿は、バレエとかサーカス芸術などへの傾倒に基づいたものであって、ゲイの記号的表象ではありません。

が。

少なくとも言えるのは、ノンケ男子のセンスでは、こんな衣装は絶対に思いつかない、ということ。

だって、「俺はロックを演ってやるぜ!」とか息巻いているノンケ男子が、こんなボディラインも露わな、股間モッコリの衣装を着たがりますか?

んなわけないでしょ?

「Bohemian Rhapsody」のころの王子様ルックは、ノンケ男子にも充分思いつく範囲内ではあります。実際、かつての日本のヴィジュアル系バンドにも、王子様ルックのノンケ男子がウヨウヨいたわけで。

でも。

「We Are The Champions」のころの白黒タイツ姿は、フレディがゲイでなかったら、絶対に思いつかなかった代物です。

ましてや、全身タイツでありながら、「ゲイ的な男らしさ」の記号的表象である胸毛を、これでもかというほどに見せつけていたのは、まず間違いなく、狙ったものです。

フレディは確かに、最期までクロゼットでした。

でも、それは時代がそうさせていたのであって、フレディ自身は、ゲイであることを怖れていたり、恥じたりしていたわけではない。そのことは、フレディの最後の恋人だったジム・ハットンや、フレディのアシスタントだったピーター・フリーストーンの著書を読めば明らかです。

むしろフレディは、時代の空気を伺いながら、自分がゲイであることを、少しずつ少しずつ、クイーンの表現の中で解放していった、と考えるほうが自然です。

その解放の極点に位置していたのが、このTOP100のNo.70の、「I Want To Break Free」(1984年)です。この曲のヴィデオ・クリップでは、女装姿のフレディが「俺は解き放たれたいんだ」と歌っています。この曲は、本国イギリスでは大ヒットしましたが、アメリカでは保守層からの大反発を受け、さほどのヒットにはなりませんでした。この曲より後、アメリカでのクイーン人気は冷え込み、フレディが1991年に亡くなるまで、それは続いていきます。

それはさておき。

「We Are The Champions」のころのクイーンの音楽は、非常にシンプルで明解なものになっていました。

そして、クイーンの音楽にいちばん力がみなぎっていたのも、やはりこの頃でした。

「We Are The Champions」と「We Will Rock You」がリリースされた1977年という時代は、エイズ禍がゲイ・コミュニティーを襲う前の、ゲイ・カルチャーにとっては、いちばん平和な時代でした。ロック界の第一線で活躍するアーティストがカミングアウトするのは当時もやはり難しかったものの、「外側へ飛び出していこう!」という活気がありました。イギリス初のメジャー級のオープンリー・ゲイ・アーティストであるトム・ロビンソンがデビューしたのは、この1977年です。ヴィレッジ・ピープルがデビューしたのも、やはりこの年です。

そんな時代の空気を受けて、フレディ・マーキュリーは、白黒タイツという、ノンケ男子には絶対にあり得ない衣装を身にまとった上で、力強く朗々と、このように歌い上げたのです。

「We Are The Champions, My friends.」と。

"We Are The Champions / We Will Rock You"
伝説のチャンピオン/ウィ・ウィル・ロック・ユー
(1977)




世界に捧ぐ 世界に捧ぐ
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No. 4
Village People / Y.M.C.A.
(1978)

ヴィレッジ・ピープルの音楽には、LGBTの当事者のみに通用する性的コードが含まれていた、という話は、No.9の「In The Navy」の項で解説しました。

ヴィレッジ・ピープル最大のヒット曲である「Y.M.C.A.」も同様で、やはりゲイのセックスを暗示しています。

Y.M.C.A.というのは、キリスト教青年会のことで、この曲におけるY.M.C.A.とは、そのキリスト教青年会が運営するユースホステルのことを指しています。そのユースホステルが、当時のゲイのあいだでは、ハッテン場として広く知られていたんですね。

で、Y.M.C.A.がゲイのハッテン場であるということを知らない人には、この曲は単なる若者讃歌のように聴こえます。しかし、Y.M.C.A.の裏の意味を知っている人には、これがゲイのカジュアル・セックスを題材にした歌である、ということが理解できるわけです。

HIVの蔓延が深刻な現在では、セーファー・セックスの啓蒙という観点からいえば、カジュアル・セックスの礼賛という題材は、不穏当に思われるかもしれません。しかし、この「Y.M.C.A.」が大ヒットした1978年は、エイズ禍よりも前の時代です。

そしてこの曲は、単にカジュアル・セックスを礼賛しているだけではなく、自分がゲイであることで悩んでいる若者たちに、「怖がってないで出ておいでよ」と呼びかけている歌でもあります。

地方都市ではゲイ同士の出会いの場が非常に限られている、というのは、どこの国でも同じです。ましてやアメリカの場合、その中西部は非常に保守的な地域なので、そうした田舎で暮らしているクロゼットのゲイにとっては、ハッテン場での出会いは、単なるカジュアル・セックス以上のものだった。



1970年代後半は、ゲイの文化が徐々に主流の文化の中で、可視化を始めた時代です。1977年にはトム・ロビンソンがゲイであることを公にしてデビューしました。しかし、どちらかといえばトム・ロビンソンは例外的な存在で、'70年代後半のLGBTアーティストの表現のスタンダードは、ヴィレッジ・ピープルの一連の楽曲や、あるいはクイーンの「We Are The Champions」のような曲でした。

つまり、「わかる人にはわかる」という含みを込めた、「ダブル・ミーニング」が主流だったのです。

「わかる人にはわかる」ということは、つまり「わからない人にはわからない」ということであり、そうした形の可視化は、したがって、異性愛社会に向けられたものではありません。

それらのアーティストと同じ、クロゼットのLGBTに向けられたものです。

トム・ロビンソンやジミー・ソマーヴィルによって実践された可視化は、LGBTの人々を啓蒙するものであると同時に、それ以外の異性愛社会にも強く向けられたものでもありました。

LGBTの地位向上が目的なら、それを訴えていくべき相手は、同じLGBTではなく、あくまで異性愛社会です。

しかし、ヴィレッジ・ピープルやフレディ・マーキュリーが実践した可視化は、それが「わかる人にはわかる」という種類のものであったからこそ、異性愛社会に向けられたものではありませんでした。

自分がLGBTであることに悩み、苦しんでいる、クロゼットのLGBTに向けて、ひっそりと送られたものだったのです。

「君は1人じゃない」という励ましを、ヴィレッジ・ピープルは「ダブル・ミーニング」という形をとることによって、クロゼットのLGBTに向けて発信していたのです。

21世紀の今日では、LGBTのアーティストがクロゼットを勇気づけるためには、ハッキリとカミングアウトする必要があるでしょう。しかし、1970年代後半は、ロック/ポップス界の第一線で活躍しているアーティストがカミングアウトするのは、今以上に難しかった。そんな時代だったからこそ、ヴィレッジ・ピープルの「わかる人にはわかる」という「ダブル・ミーニング」は、クロゼットのLGBTに対して効力を持ち得ていたのです。

「Y.M.C.A.」は、ただ単にゲイのカジュアル・セックスを歌っているだけではなく、保守的な地域で暮らすクロゼットのゲイに、「Y.M.C.A.に行けば仲間に会えるよ、君は決して1人じゃないんだよ」という励ましも送っていたのです。

その点を、決して見落としてはいけません。

"Y.M.C.A."
Y.M.C.A.
(1978)


ヴィレッジ・ピープルの詳しいバイオグラフィーは、こちらでどうぞ。
ヴィレッジ・ピープル バイオグラフィー(Queer Music Experience.)



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No. 3
Tom Robinson Band / Glad To Be Gay
(1977)

1970年代後半という時代に、LGBTのアーティストがその表現を通じて、同じLGBTの人々を励まそうとする場合には、ヴィレッジ・ピープルやフレディ・マーキュリーが実践したような、「わかる人にはわかる」という「ダブル・ミーニング」のほうが多かった。

だからこそ、そうした時代にあって、ゲイであることを堂々と公言してメジャー・デビューを果たしたトム・ロビンソンの表現は、LGBTを励ますだけでなく、異性愛社会から見たLGBTの可視化の促進という、より政治的な性質を帯びたものでした。

クイーンが「We Are The Champions」を歌い、ヴィレッジ・ピープルが「San Francisco」によってデビューした1977年に、トム・ロビンソン・バンドがリリースした「Glad To Be Gay」は、彼らのデビュー・シングルであるNo.37の「2-4-6-8 Motorway」に続いてリリースされた、ライヴEP『Rising Free』の収録曲です。BBCでは放送禁止になったものの、全英のシングル・チャートでは最高18位を記録するヒット曲となりました。

「ゲイで良かったと思っているなら、その喜びを声に出して歌おう!」と呼びかけているこの曲は、自分たちと同じLGBTをアジテートしています。しかし、ではなぜアジテートしているのかといえば、それはつまり、「僕たちはここにいる」ということを、異性愛社会に向かってアピールするためです。

つまり、「Glad To Be Gay」という楽曲は、それまでは不特定多数のクロゼットのLGBTに向けて「ダブル・ミーニング」という形で発信されていたゲイ・アンセムが、異性愛社会からも内容が理解できる形を採った、最初のゲイ・アンセムでもあるのです。

この「Glad To Be Gay」という楽曲は、ゲイ・カルチャー史上、非常に重要な楽曲ではあるんですが、日本人にはあまり馴染みがありません。CDの入手が難しいわけではないのですが、たとえばペット・ショップ・ボーイズの「Go West」のようにアッパーで感動的というタイプの曲ではなく、どちらかといえば暗鬱なイメージのミッド・テンポ曲なので、スポットが当たりにくく、テレビやラジオでオン・エアされる機会もほとんどありません。

しかし今日では、ありがたいことにインターネットというものがあり、パソコンさえあれば、誰でも気軽に「Glad To Be Gay」の動画を観ることができるようになりました。

まだ「Glad To Be Gay」を聴いたことがないという人は、ぜひ、この動画で「Glad To Be Gay」に触れてみてください。確かに心が沸き立つような曲ではありませんが、1970年代後半という時代にこうした曲が全英でヒットしていたということの意義を、ぜひ噛み締めてもらいたいのです。

"Glad To Be Gay"
グラッド・トゥ・ビー・ゲイ
(1977)


トム・ロビンソンの詳しいバイオグラフィーは、こちらでどうぞ。
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No. 2
Frankie Goes To Hollywood / Relax
(1984)

1970年代後半には、ロック/ポップス界のLGBTアーティストは、「わかる人にはわかる」という「ダブル・ミーニング」の形で、自分たちと同じLGBTへ向けた可視化を行なっていました。

そうした中で、異性愛社会へ向けたLGBTの可視化の先鞭を着けたのが、No.3の「Glad To Be Gay」のトム・ロビンソンでした。

しかし、トム・ロビンソンの後継者はすぐには現れませんでした。

エイズ禍が本格的にゲイ・コミュニティーを冒し始め、「エイズはゲイのみが罹る奇病」という誤った認識が、世界中に広まってしまったためです。

ゲイ・カルチャーは、再びアンダーグラウンドのものとなってしまいました。

異性愛社会に向けられたLGBTの可視化は、1980年代の初頭になってから、当時イギリスで一大ブームとなっていたニュー・ロマンティックの分野で、視覚上の性差を取り払うという形で、再び活性化しました。この動きの中で登場してきたのが、No.19のカルチャー・クラブのボーイ・ジョージや、No.20のソフト・セルのマーク・アーモンドでした。特にボーイ・ジョージのフェミニンな美しさは、視覚上の「男らしさ」とか「女らしさ」というのは結局は単なる記号でしかないのだということを、人々に強く印象づけました。彼はのちにカミングアウトしますが、しかしこの時点では、ボーイ・ジョージもマーク・アーモンドも、ゲイであることを公にはしていませんでした。

そして、ニュー・ロマンティック・ブームが一段落した1983年から1984年にかけて、イギリスには次々と、同性愛についてハッキリと言及するポップ・グループが現れてきました。たとえば、視覚的にはニュー・ロマンティックを継承している、No.17のデッド・オア・アライヴ。マーク・アーモンドの「性の曖昧さ」をギター・ポップの世界に継承した、モリッシー率いるザ・スミス。トム・ロビンソンの政治性をダンス・ポップの世界に継承した、No.12のブロンスキ・ビートなど。

そして、それらのグループのうち、最も過激な表現に訴えていたのが、ホリー・ジョンソンポール・ラザフォードの2人のオープンリー・ゲイが率いる、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドでした。

ヴィレッジ・ピープルにおけるゲイのセックス描写は、あくまでも「ダブル・ミーニング」という形で表現されていました。しかし、フランキーの「Relax」は、ファックだのディックだのといった猥語こそ使われていないものの、それ以前のLGBTアーティストたちのような「ダブル・ミーニング」ではなく、あくまでも「暗喩」によって、ゲイのセックスが表現されていました。

つまり、LGBTの性的コードに通じていなくとも、あるていど行間を読むことさえできれば誰にでも理解可能な、いわば、「わからない人にもわかってしまう」作品だったのです。

ヴィデオ・クリップのほうはさらに過激で、言葉の上での暗喩が通じない人にも、これがゲイのセックスを歌った曲だということが通じてしまう作品でした。

BBCは、「Relax」のヴィデオ・クリップを放送禁止にしました。しかし、それがかえって話題を呼び、「Relax」は全英のヒット・チャートで5週連続ナンバー・ワンとなりました。その売り上げ数字は、'80年代のイギリスにおいては、バンド・エイドの「Do They Know It's Christmas?」に次ぐ巨大なものとなりました。バンド・エイドは、アフリカの飢餓救済のために当時のイギリスの人気アーティストが一同に集ったチャリティ企画なので、1バンドの単独の作品としては、フランキーの「Relax」は事実上、'80年代のイギリスでの最大のヒット曲となりました。

カルチャー・クラブのボーイ・ジョージは、当時はセックスを話題にするのを回避していました。そのため、フランキーのこうした表現には、強く不快感を示したと言われています。

しかし、「わからない人にもわかってしまう」という形でゲイのセックスが表現された作品が、'80年代のイギリスの最大のヒット曲になったという事実は、やはり大きい。

「Relax」がこれだけの大ヒットを記録したのは、実にさまざまな要因が絡み合ってのことだと思います。しかし、いくらイギリス人がエキセントリックな表現を好む傾向にあるからといって、フランキーのようなバンドを、何の抵抗もなく、即、受け入れられたとは考えにくい。

フランキーの大成功は、やはりそれ以前のLGBTアーティストたちの功績の上に成り立っていたと、私は思います。

クイーンという枠の中で徐々にゲイ性を解放していったフレディ・マーキュリー。政治的な方向でLGBTの可視化を実践したトム・ロビンソンやジミー・ソマーヴィル。視覚上における性差を無効にしたボーイ・ジョージ。こうしたアーティストたちの活躍の積み重ねの上に成り立っていたのが、フランキーの「Relax」の大成功だった。

私は、そのように考えています。

"Relax"
リラックス
(1984)


フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの詳しいバイオグラフィーは、こちらでどうぞ。
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Bang!...The Greatest Hits of Frankie Goes to Hollywood Bang!...The Greatest Hits of Frankie Goes to Hollywood
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No. 1
Elton John / Your Song
(1970)

アメリカのLGBT向けケーブルTV局、LOGOが運営している、ゲイ&バイ男子向けニュース・サイトの名前は、AfterElton.comです。(ちなみに、ゲイ&バイ女子向けのニュース・サイトは、AfterEllen.com。コメディアンのエレン・デジェネレスの名前から取られています。)

このニュース・サイトの名前にも象徴されるように、エルトン・ジョンは、目下、世界で最も有名な、かつ世界で最も影響力のある、オープンリー・ゲイのカリスマの1人です。

しかし、ロック/ポップス界におけるLGBTのアーティストの歴史上、「エルトン・ジョン以前」とか「エルトン・ジョン以後」という節目は、明確には存在していません。

存在するとしたら、それは「エルトン・ジョン以前、以後」ではなく、「フレディ・マーキュリーの死の以前、死の以後」、だと思います。

フレディが1991年に亡くなって以降、ロック/ポップスの世界では、HIV撲滅キャンペーンが盛んになりました。さまざまなLGBTアーティストが、チャリティー活動に力を注ぐようになります。また、k.d.ラングやメリッサ・エスリッジ、インディゴ・ガールズ、ペット・ショップ・ボーイズのニール・テナントなど、決して「過去の人」になっていたわけではない現役の大物アーティストたちが続々とカミングアウトしたのは、1990年代の前半に集中しています。これらのカミングアウトとフレディの死のあいだには直接の因果関係はないものの、フレディの死がロック/ポップス界のLGBTアーティストの上に及ぼした影響は、少なからず関わっているように思えます。

エルトン・ジョンがLGBTアーティストとしての立場を明確にしたのも、やはり1990年代に入ってからのことです。

エルトン・ジョンは、1976年に『Rolling Stone』誌のインタヴューに応えて、自身がバイセクシャルであることをカミングアウトしています。そして、1984年にはドイツ人女性と結婚しています。バイの男性なら、女性と結婚しても別におかしくはないのですが、実際には、この結婚は偽装でした。4年後には破綻しています。エルトンがバイセクシャルをカミングアウトしたのは、本当は自分はゲイであるということを、ごくごく控えめに表現したものだったのです。

エルトン・ジョンの楽曲の歌詞は、そのほとんどが、詩人のバーニー・トーピンの手によるものです。ゆえに、そこにはエルトンからの切実なメッセージが込められていない、と見做す人もいます。少々長くなりますが、1992年(つまり、エルトンがLGBTアーティストとしての立場を先鋭化させつつあった、ごく初期のころ)の『rockin'on』誌に掲載された、松井力也氏のエルトン評を、以下に引用してみます。

考えてみれば、エルトン・ジョンというのは不思議な人である。20年以上に亙り膨大な数のレコードを売ってきた比類のない大スターでありながら、ロックの歴史の中に確固とした位置づけもなされておらず、かといって商売人的な印象もない。(中略)
 エルトン・ジョンに熱狂的な信者がいないのは、「理解してくれ」「愛してくれ」といった種類の切実なメッセージを一切送ってこなかったからである。そんな形で自己を露呈することなどとてもできないからである。エルトン・ジョンは、ただ自分の中にあるノーマルな部分を自分自身で確認するかのように、「嫌わないでくれ」「認めてくれ」と言い続けてきたのである。だからこそ、どうしても売れ続ける必要があるのである。そして同時に、売れてしまったがために、ゲイとしての自分はどんどん追い詰められていってしまったのである。
 エルトン・ジョンは、特に必要以上に好きになってあげなくてもいい。ただ、嫌いと言ってはかわいそうである。「特に好きじゃないけど決して嫌いじゃない」という接し方がいちばんいいと思う。(『rockin'on』1992年12月号、86頁~87頁)

このエルトン評は、「ゲイ=アブノーマル」、という決め付けのもとに書かれています。「好きになってあげなくてもいい」だの、「嫌いと言ってはかわいそう」だの、完全にゲイを見下ろした目線で書かれたものなので、ここにある全てを真に受けるべきではないのですが、ただ一箇所だけ、「ロックの歴史の中に確固とした位置づけもなされておらず」という指摘は、まさにそのとおりでした。

1992年の時点で、エルトン・ジョンは、既に比類なき大スターでありながら、ロックの歴史上に確固たる位置を持たない、非常に立ち位置の緩いスターだったのです。

しかし、このエルトン評が書かれたのと同じ年に、エルトン・ジョンは、自らの名を冠したエイズ基金を設立しています。

つまり、デビューから20年以上を経てようやく、エルトンジョンはいよいよ本格的に、LGBTアーティストとしての立ち位置を、先鋭化させ始めていたのです。

そして1997年にはエイズ基金のコンサートで、バイセクシャルではなくゲイとして、2度目のカミングアウトを行います。2005年にはパートナーのデイヴィッド・ファーニッシュと市民パートナーシップ法に基づく婚姻関係を結んだのは、記憶に新しいところです。

彼がオープンリー・ゲイ・アーティストとしての立場を鮮明にしたことによって、それまでは当たり障りのないただのポップスと思われがちだったエルトン・ジョンの楽曲には、新たな意味性が備わることになります。

エルトン・ジョンの楽曲、特に'90年代よりも前のものは、「理解してくれ」とか「愛してくれ」といったような切実なメッセージが、確かに込められてはいません。

しかし、誰もが共感できるロマンティシズムと物語性が、そこにはあります。

つまり、世界で最も強い影響力をもつオープンリー・ゲイ・アーティストが歌っているのは、LGBTであろうがストレートであろうが関係なく、全ての人が共感することのできる、普遍的な愛のメッセージなのです。

先に引用したエルトン評では、「理解してくれ」とか「愛してくれ」といった類の切実なメッセージをエルトン・ジョンが送ってこなかったのは、エルトン自身がゲイという性的指向をアブノーマルだと認識していたからだ、と解釈していました。それはそのとおりかもしれません。しかし、'90年代以降のエルトン・ジョンは、ゲイ・プライドに溢れたアーティストへと変貌した。それによって、以前の楽曲群は、それが非常に詩的で美しい、普遍的な愛のメッセージであるからこそ、「ゲイ=アブノーマル」という誤った先入観を、強く否定するものとして、新たな輝きを得たのです。

「Your Song」は、1970年に発表された、エルトン・ジョン最初の大ヒット曲です。

「これは自分の歌だよ」と、みんなに言って聞かせても構わない
とってもシンプルだけれど、これで出来上がりなんだ
僕の書いた言葉を、君が気に入ってくれるといいんだけど
君がこの世にいる人生が、どんなに素晴らしいかってことを

……LGBTアーティストの歌っている楽曲は、それを聴くLGBTの人々にとっては、エルトンが「Your Song」の中で歌っているように、まさしく「自分の歌」として、心に響くのです。

そして。

人を愛するという感情に、LGBTとストレートのあいだで、違いがあるわけではありません。

ということは、それがたとえゲイ・セックスを題材にした歌であっても、そこで歌われている感情自体は、普遍的なもののはずなのです。

LGBTアーティストの歌う歌は、LGBT以外の人々にとっても、「自分の歌」になり得るはずです。

音楽には、人と人とのあいだにある壁を乗り越えて、心を大きく揺さぶる力があるのです。

"Your Song"
僕の歌は君の歌
(1970)


エルトン・ジョンの詳しいバイオグラフィーは、こちらでどうぞ。
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……というわけで、LGBTミュージック TOP100でした。

この選曲に納得のいかないかたもいらっしゃるかと思います。

が、前書きにも記しているとおり、このTOP100は楽曲やアーティストの優劣を表したものではないし、絶対的な評価を下したものでもありません。

あくまでも、LGBTミュージックという観点からロック/ポップスを楽しむ際の、ガイドブックとして用いてもらえると嬉しいです。


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2007.04.27 Top↑
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