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このブログに、いつも温かいコメントを寄せてくださっている、りょうたさんのブログ『に し へ ゆ く ~Orientation to Occident』の5月2日のエントリ、『ナタリー・ポートマンは「選択的バイセクシュアル」になるのか?』は、非常に面白い内容でした。


その内容を、私がここで要約してしまうと、りょうたさんのブログにジャンプするのを面倒くさがってしまう人が出てきてしまいそうなので、あえて要約はしません。りょうたさんご自身が語っている内容を、ぜひ直接読んでみてください。

ナタリー・ポートマンは「選択的バイセクシュアル」になるのか?(に し へ ゆ く ~Orientation to Occident)



で。

このりょうたさんのエントリを読んでいただければわかるとおり、「選択的バイセクシュアル」というのは、りょうたさんの造語です。

造語ではあるんですが、この「選択的バイセクシュアル」という言葉が、性的指向の1つの領域として、今後も定着していったらいいなー、と私は思いました。

というか、たとえ言い回しがどのようなものであれ、この「選択的バイセクシュアル」という言葉が指している概念そのものは、今後も必要とされると思います。



私個人の実感としては、性的指向というのは、選択可能だとは思えません。なぜかというと、私はこれまで、異性に対して一度も恋愛感情や性欲を抱いたことがないので。

その一方で。

私のLGBTの友人たちの中には、偽装ではない異性との恋愛経験を経た上で、今はゲイ男子やゲイ女子として暮らしている、という人たちも、たくさんいます。

そうした友人たちは、あえて言うなら、性的指向を「選択」した、ということになるんだとは思います。

ただ。

その「選択」というのは、あくまでも「意識上の選択」ではなくて、「体験上の選択」だと、私は思うんですよ。



アンチ・ゲイの人たちの多くは、「性的指向は選択可能だ」、と考えています。

なんでかっていうと、異性愛こそが「自然な行為」だと考えている人たちの目には、同性愛は「不自然なもの」、つまり「意識的に選択されたもの」としか映らないからです。

しかし、そういう主張に対しては、こう返すことが可能です。

「もしも本当に、性的指向が「選択」可能なら、他ならぬあなたも、同性愛を「選択」することが、充分に可能なんですよ? その意味では、私たち同性愛者と、あなたたち異性愛者のあいだには、何の違いもありません。そうではありませんか?」

――こうなってくると、ほとんど禅問答の世界です。

だって、アンチ・ゲイの人たちの主張というのは、結局は全部、後付けのものだから。

要するに、生理的に反発しているだけなんですよ。

それを後付けの理屈で正当化しているだけなんだから、そうした後付けの理屈にいくら反駁してみたところで、しかるべき着地点なんて、見出せるわけがない。

まあ、それはそうとして。

性的指向というのは、選択できる人もいるし、選択できない人もいる、という、非常に十人十色なものなんですよ。もちろん、それが意識上のものか体験上のものかの違いはあるけれど。

いずれにせよ、「選択できるか、できないか」という、2つに1つの切り口で性的指向を議論の俎上に乗せるのは、はなはだナンセンス、ということです。



ただし。

ナンセンスではあるんだけれど、でも、同性愛を「選択」している人がいるのも、これまた事実なんだから、そうした人たちをカテゴライズする言葉があってもいいのではないか?

と、私はりょうたさんのエントリを読んで、「うんうん」と頷きました。



選択的バイセクシュアル、そういうカテゴリも、確かに必要です。



性的指向をカテゴライズすることに、はたして意味はあるのか? と感じるかたも、少なからずいらっしゃることと思います。

それはつまり、「1つの型にはめられたくはない」「レッテルを貼られたくはない」ということですよね?

その「1つの型にはめられたくはない」という気持ちを、より詳細に表現するならば、それは、

「自分の中には、その型からはみ出している部分もあるのだから、それを否定されるのは、自分自身を否定されるのも同じこと」

ということだと思うんですよね。

その気持ちはわかります。要は「疎外されたくない」ということですから。

でも。

「1つの型に嵌められたくはない」という意見に対しては、

「だったら、自分が属する自分のためのカテゴリを、自分の手で作ってしまえばいいんじゃないの?」

とも、私は思うんですよね。

その上で、自分と同じような人がいるのを他に探せばいいんじゃないの? と。

カテゴライズという行為そのものは、別に否定されるべきものではないと、私は思うんですよね。

むしろ、人というものは、なんだかんだ言いながらも、自分が一定のカテゴリに属していないと、不安を感じる生き物だと思うんですよ。

動物占いのような類の簡易心理テストが流行るのも、結局はそうした心理からくるものでしょ? 自分がどのカテゴリに属しているのかを知りたいから、みんな、そうした簡易心理テストに興じているわけであって。

R.E.M.のマイケル・スタイプが、自分の性的指向をゲイやバイに区分せず、クイアーと独自に定義しているのも、別に彼はレッテルを貼られること自体を拒否したわけではなくて、あくまでも、「既存のレッテルの中に自分の居場所がなかった」、ということなんです。

だからこそ彼は、自分をクイアーと定義することによって、「自分が属する自分のためのカテゴリを、自分で作り出した」わけです。



性の多様性を、広く一般に理解してもらうためには、一人ひとりに適した性のカテゴリを、さらに細分化していく必要があると、私は思います。

なぜならば。

性の多様性を広く一般に理解してもらうということは、言いかえれば、「それぞれの性的指向のあいだにある違いを正しく認識してもらう」、ということに他ならないからです。

つまり、1つひとつの性的指向のあいだの差異を正しく認識することによって、そこから初めて、「それぞれの性的指向のあいだで、いったい何が異なっていて、何が共通しているのか」ということが、浮き彫りになってくるんです。

ということは。

それぞれの差異から目を背けるという行為は、異なったカテゴリのあいだにある共通項からも、同じようにして目を背けてしまうということに、他なりません。

お互いを理解し、共存していくための糸口を、見失ってしまう怖れがある、ということです。

したがって、カテゴライズという行為を否定してしまうのは、多様性を尊重しているというよりは、むしろ「一元化」を導き出す、非常に危うい考え方です。

繰り返しになりますが、「1つの型に嵌められたくない」のであれば、自分が属する自分のためのカテゴリを、自分で作ってしまえばいいんですよ。カテゴライズそのものを否定する必要はないんです。

以上のような理由から、性的指向のカテゴリをより細分化していく作業は、非常に意義深い、必要不可欠なものだと、私は考えます。



とはいうものの。

「選択的バイセクシュアル」に分類されるセレブたちの発言の是非は、これはこれで、また別問題ではあったりするんですけどね。

その辺りは、りょうたさんもしっかりと心得ていらっしゃいます。

りょうたさんの主張の根幹というのは、

「世の中には、『選択的バイセクシュアル』という分類がいちばん適当である人たちもたくさんいて、そうした人たちの居場所としてのカテゴリは必要だし、同様の理由で、そうした人たちのためのロール・モデルも、やはり必要。そのためには、同性愛をきちんと正しく認識した『選択的バイセクシュアル』のセレブが、もっと登場してくれはしないものか」

と、私はそのように読みました。(結局、要約しちゃってるし)






さてさて。

実はここからが本題なんですが。(枕、長すぎ)

ロック/ポップスの分野にも、「選択的バイセクシュアル」に分類されるアーティストが存在しています。

そうしたアーティストたちを、私は以前の『LGBTミュージック TOP100』に、含めてはいませんでした。

その理由は、「選択的バイセクシュアル」に属するアーティストの位置づけを、私自身が計りかねていたからです。

もちろん、この時点では、「選択的バイセクシュアル」というカテゴライズを、自分の頭では思いつけなかったんですけど。

しかし、今回りょうたさんがそうしたカテゴリを提示してくださったので、「ああ、なるほど! そういう考え方があったか!」と目からウロコが落ちまくりー!

てなわけで。

「選択的バイセクシュアル」に分類されるロック/ポップスのアーティストたちを、次回のエントリで、ざっと紹介したいと思います。

2回に分けないと、このままでは破壊的な長さのエントリになりそうなので。

あんまり長くなると、せっかく書いても読んでもらえなさそうで。




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2007.05.05 Top↑
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