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今回のエントリを読む前に、前々回と前回のエントリを読んでくださいねー。

前々回:
選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜・序章

前回:
選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜・その1



さてさて。

前回のエントリでは、デヴィッド・ボウイとブレット・アンダーソンの、1993年の対談を紹介しました。

今回紹介するアーティストは、この人。


'90年代以降のアメリカのパンク・バンドの最高峰、グリーン・デイの、ビリー・ジョー・アームストロングです。


日本のロック・ファンの人たちのあいだで、この事実がどのていど知られているのかはわからないんですが。

英語版Wikipediaの、ビリー・ジョーのページを開くとですね、ページ下部にある、関連カテゴリの一欄の中に、「Bisexual musicians」とか「LGBT musicians from the United States」といったカテゴリが含まれているんですよ。実際に見てもらえればわかるかと思いますが。

Billie Joe Armstrong (From Wikipedia, the free encyclopedia)

このカテゴライズの論拠となっているのが、『The Advocate』1995年1月24日号に掲載された、ビリー・ジョーのインタヴューです。

このインタヴューは、現在ではインターネットで読むこともできるのですが、この中でビリー・ジョーは、

「俺は、いつだってバイセクシャルだったと思うよ」

と発言しています。


ただし。


実際に同性と性的関係を結んだことはないそうです。

その意味では、ビリー・ジョーも、前回のエントリで紹介したブレット・アンダーソンと同じく、「同性愛経験のないバイセクシュアル」なんですね。

だから、この発言だけをもってして、ビリー・ジョーをLGBTアーティストとするのは、ちと乱暴じゃなかろうか? と思ってたんですが。

しかし、ここに新しく「選択的バイセクシュアル」というカテゴリを設定すると。

ビリー・ジョー・アームストロングは、見事にスッポリと、このカテゴリに収まるんですね。

だからこそ私は、りょうたさんが「選択的バイセクシュアル」という概念を提示したときに、「目からウロコー!」と思ったんです。



ビリー・ジョーが、「俺はバイセクシュアルだと思う」と発言した理由というのは、おそらくは、LGBTの擁護が目的です。その意味では、ビリー・ジョーの性的指向についての発言というのは、政治的な性質の強いものだといえます。

しかし。

ビリー・ジョーが、デヴィッド・ボウイやブレット・アンダーソンと大きく異なっているというのは、ビリー・ジョーは同性愛を、純粋に「性欲」と捉えているからです。

ボウイやブレットのように、ビリー・ジョーは同性愛を、「イデオロギーの一種」とは、考えていません。



ちなみに、ビリー・ジョーは、グリーン・デイが1994年にアルバム『Dookie』で世界的に大ブレイクを果たした直後の全米ツアーのオープニング・アクトに、クイアーコア・バンドのパンジー・ディヴィジョンを起用しています。

パンジー・ディヴィジョンについては、既にQueer Music Experience.本編で、バイオグラフィーを掲載しているので、ぜひそちらも参照してください。この中で、クイアーコアについても解説しています。

一応ここで簡単にクイアーコアを説明しておくと、クイアーコアというのは、「LGBTであることに立脚して社会批判を行いつつ、同時にゲイやビアンのステレオタイプも批判していく文化活動全般」、のことです。もともとは同人誌の世界で使われていた言葉でしたが、やがて映画や音楽、フェミニズムの分野にも波及していきました。

音楽ジャンルとしてのクイアーコアは、多くの場合はパンク・ロックです。パンジー・ディヴィジョンも、音楽的にはパンクに属します。

パンジー・ディヴィジョン バイオグラフィー (Queer Music Experience.) ←ヴィデオ・クリップも視聴できるようになっています。

で。

そのパンジー・ディヴィジョンとグリーン・デイは、もともとは、同じインディー・パンク・レーベル、Lookout! Records に所属していました。

やがてグリーン・デイはメジャーに移籍し、そこからリリースした通算3作目の1994年のアルバム『Dookie』が、全世界で爆発的なセールスを記録して、スーパースターとなったわけですが、その社会現象ともいえる大ブームの中で行なわれた全米ツアーのオープニング・アクトに、ビリー・ジョーは、かつてのレーベル仲間である、クイアーコアのパンジー・ディヴィジョンを起用していた、というわけです。

グリーン・デイが目当てでライヴに集まってきたオーディエンスたちは、最初のうちこそパンジー・ディヴィジョンのパフォーマンスに歓声を送るものの、歌詞の内容を聴いて、彼らがゲイであるということがわかると、とたんに罵声を浴びせかけたそうです。

それを見たビリー・ジョーは、自分の出番の途中で演奏を止め、オーディエンスに向かって啖呵を切ったそうです。

「お前らは、どうしようもなく哀れな奴らだ!」



そのエピソードも、『The Adovocate』誌の1995年のインタヴューの中で語られています。後半部分のみですが、このインタヴューを日本語に訳してみたので、ぜひ読んでみてください。

全文はこちらです。
Coming Clean(『The Advocate』1995年1月24日号)

「パンジー・ディヴィジョンは、人の命を救うバンドじゃないかって、俺は思うよ」とアームストロングは冷静に語る。「キャッチーだし、すごくためになる。あいつらは性的指向に正直で、それによって救われている人たちだっているんだよ」

「時々、無知なバカどもがオーディエンスにたくさんまぎれこんで、パンジー・ディヴィジョンに罵声を浴びせかけるせいで、不愉快な気分にさせられることがある」彼はツアーについて論じつつ、そう続ける。「オーディエンスがしらけるのを見て、ガックリきたね。『クソ! 俺たちを観に来てるのはこんなヤツらなのかよ?』ってさ。ずっとそう思ってた」

それに対するアームストロングの返答とは、グリーン・デイのショウの途中で演奏を止め、オーディエンスに向かって、次のように啖呵を切ることだった。「お前らは、どうしようもなく哀れな奴らだ」彼は言った。「お前らは、パンジー・ディヴィジョンの演奏を3曲聴いて、その3曲をマジで楽しんだ。そのくせ、歌詞の内容を聴いて、あいつらがゲイだとわかったとたんに、あいつらを嫌いやがった。そういうことだろ? お前らは、あいつらを嫌がってるんだよ。いいか、よく覚えとけ、パンジー・ディヴィジョンは、ロックン・ロールの未来なんだ」

バークレー郊外のロデオという町で、バンド・メンバーの(マイク・)ダーントと共に育ったアームストロングにとって、同性愛は、これといって目新しい主題ではないし、かといって、躍起になって否定するものでもない。「俺は、いつだってバイセクシャルだったと思うよ」彼はさらりと言ってのけた。「つまり、いつだって興味があったっていう意味なんだけど。どんな人も、同性愛を夢想することぐらいはあるだろ。思うんだけど、人はもともとバイセクシャルとして生まれてきて、でも両親とか社会とかが、『ああ、同性愛なんてムリ!』みたいな気分に、あとから方向付けしちゃってるんじゃないのかな? タブーだとか何だとか言っちゃってさ。別に悪いことでも何でもないのに、まるでそれが悪いことであるかのように、頭ん中に染み込んじゃってるんだよ。すごく素晴らしいことだっていうのにさ」

その素晴らしいことが、彼のこれまでの実際のふるまいに、何らかの形で現れているかどうかを訊ねられると、つい最近結婚した(そしてまもなく父親になろうとしている)アームストロングは、微笑した。「大部分は、頭ん中だけだけどね」彼は言う。「俺は、男と関係を持ったことは一度もない。でも、しょっちゅうもがき苦しんでるんだ。16とか17だったころには、特にね。高校では、誰も彼もがみんな、マッチョでなければならないと思い込んでた。性的指向について噂が立ったやつは、みんなからいじめられるんだよ。恐ろしいことだ。」

アームストロングの性的指向との苦闘は、ファンの目にもわかるものである。「『Dookie』の中の『Coming Clean』って曲は、カミングアウトについて書いたものなんだ。それについて、手紙をもらったこともあるよ」そう語る彼の様子には、かつてカート・コベインが、彼の書いた『All Apologie』と、今では有名となったその歌詞の一節、「他に何を言えっていうんだ?/誰だってみんなゲイなんだよ」について語るときに見せていたのと同じ平静さがある。

「性的指向について言えば、カート・コベインはいいことをしてたと思う」彼は続ける。「あと、k.d.ラング。彼女には本当に感服する。それと、メリッサ・エスリッジ。(このインタヴューの前年の)ウッドストックにも出てたけど、彼女はマジでイイよね。本当にポジティヴだ。それから、性的指向について思いっきりあからさまなゲイ・ロッカーたちがいる。パンジー・ディヴィジョンもそうだし、サンフランシスコにはホワイト・トラッシュ・デビュータンツっていうバンドがあるんだ。彼らはまだ、どこのレーベルとも契約してないけど、すごくエロティックで、ゲイ男子とゲイ女子からなるバンドなんだ」

男と寝ることについては語ってくれなかったものの、アームストロングは、同性愛が彼の生活に、非常に私的な関わり方をしていることを、確かに認めている。「俺の元カノは、バイセクシャルだったんだ」彼は穏やかに言う。「彼女は、本当はレズビアンだったんだって、今では思うね。俺にはわかるよ。俺と彼女は全く2人きりの世界にこもっていて、互いに献身し合ってた。俺は浮気されるのがすごく嫌なんだ。当時は、男だろうが女だろうが、彼女が他の誰かといるのが許せなかった――凄まじく嫉妬深い男なんだよね!」

アームストロングには、ゲイの叔父がいる。「彼はいつだって、『俺はゲイだ』って大っぴらにふるまってた」彼は少しばかりためらいを見せながら言う。「彼とはものすごく仲が良いんだ。でも、彼は今、エイズの末期症状にある」

ロック界には、いまだにゲイとエイズへの偏見の臭いが漂っている。そのことは認めつつも、彼はあえてそれをテーマにして曲を書くかどうかはわからないと言う。「エイズについて曲をかけるほど、俺はエイズのことをよくわかっちゃいないから。でも、親しい誰かを失ってしまうことについてなら、俺には確かに書ける」彼は刺青の入った腕をさすりながら、考えに耽りつつ言葉を継ぐ。「エイズとかそうしたことに、みんながどれだけ無知で愚かなのか、そのことについて書くというタイプに、俺はより近いね。俺はいつもオーディエンスの連中に、お互いのことを気遣えって言ってるんだ。そう――こんな忌々しいことを書かずにすませるなんて、俺にはできそうにもないな」


――どうです?

めちゃめちゃカッコいいと思いませんか? ビリー・ジョーは。

しかも、このインタヴューは、彼がまだ22歳のころのものですよ?

日本の22歳のタレントが、こうした発言をするなんてことは、全く想像できない。



ビリー・ジョーの同性愛への立ち位置というのは、「興味はあるんだけど、実行に移すのは怖い」というものです。

だからこそ、男と寝る意志があるかどうかについては明言しないものの、少なくとも同性への性的興味がある以上、自分はバイセクシュアルであると潔く認識し、しかもそれを公言するだけの勇気はあるわけです。

つまり、ビリー・ジョーは、「自分は同性にも少し興味がある、でもそれを実行に移すのは怖い」という自身の状態を、そのまんま開陳しているという点で、「選択的バイセクシュアル・アーティスト」としての当事者性が、極めて高いんですね。

しかも、「同性愛の実行へのためらい」と苦闘し続けているにもかかわらず、彼にはホモフォビアの傾向が、一切ないんです。



それはたぶん、彼にはゲイの叔父がいたからだと思います。



仲良しだった叔父がゲイだったから、ビリー・ジョーにはゲイへの偏見はない。しかし、高校時代に、ゲイであることを疑われた同級生が、よってたかっていじめられるのを目にしたり、あるいはゲイの叔父がエイズに苦しんでいるのを知っているからこそ、彼は自身の中にある同性愛の傾向を実行に移すことに、ためらいがある。

おそらく、そういうことではないでしょうか。

バイセクシュアルとして一歩を踏み出すことはしていないけれど、ゲイへの偏見は見過ごせない。だからこそ、彼は人気絶頂時にカミングアウトを行なったk.d.ラングやメリッサ・エスリッジを絶賛し、パンジー・ディヴィジョンのようなクイアーコア・バンドに共鳴し、自身がスーパースターの入口に立っているという重要な時期に、あえてパンジー・ディヴィジョンを、ツアーのオープニング・アクトに起用した。しかも、パンジー・ディヴィジョンに罵声を浴びせかけるオーディエンスたちには、自分のショウを中断までして、「お前らは哀れな奴らだ! パンジー・ディヴィジョンはロックン・ロールの未来なんだ!」と啖呵を切ってみせる。

いやー、カッコ良すぎ、ビリー・ジョー。最高。

こうしたビリー・ジョーの発言は、先にも述べたとおり、政治的な性質を、半ば自明的に帯びています。

それが自分でもわかっているからこそ。

逆に彼は、楽曲の中でゲイやエイズの問題を取り扱うことに、非常に慎重な姿勢を示しているんですね。

これこそが、前回のエントリで紹介したブレット・アンダーソンと、大きく異なっている点です。

ビリー・ジョーは、同性愛を「イデオロギーの一種」ではなく、「自身の欲望」として、正しく認識しています。

ただし、その「欲望」を実行に移したことがないからこそ、彼はそれを、「自身の問題」として曲の中で扱うのは難しい、と感じているわけなんですよ。

扱うとしたら、それは「Coming Clean」のように「自分はバイセクシュアルかもしれない」という「自身の苦悩の告白」になるか、あるいはエイズによって親しい人を失うかもしれないという、「自身の悲しみ」として書くだけだ、と。



そうしたビリー・ジョーの、極めて誠実で、かつ聡明な姿勢がよく表れているのが、2000年に発表したアルバム『Warning:』からの第1弾シングルとしてリリースされた、「Minority」です。

「I want to be the minority」と歌われているこの曲の歌詞が、極めて秀逸である理由というのはですね、

抑圧者を名指しで批判しているにもかかわらず、擁護すべき被抑圧者の側は、「Minority」という一語で、非常に包括的に表現されている、という点です。

つまり、「Minority」という曲は、必ずしも性的少数者のみを擁護しているわけではありません。

攻撃方法はピンポイント爆撃でありながら、そこで擁護されているのは、ありとあらゆる全てのマイノリティ、というわけです。

そうしたビリー・ジョーの姿勢は、曖昧であるというよりは、むしろ彼が「当事者性」という部分に非常にこだわり、極めて慎重な態度で臨んでいることの表れだ、と私には感じられます。

"Minority"
マイノリティ
(2000)




Warning Warning
Green Day (2000/10/03)
Reprise/WEA
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さて。

これまで紹介してきた「選択的バイセクシュアル・アーティスト」は、いずれも男性アーティストばかりです。

では、はたして女性アーティストの中に「選択的バイセクシュアル・アーティスト」はいるのか否か?

てなわけで。

次回のエントリでは、女性の「選択的バイセクシュアル・アーティスト」について、あれこれ書いてみたいと思います。

(2回で終わらせるつもりが、すっかりシリーズ化してしまった)



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2007.05.07 Top↑
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