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前回のエントリの最後に、「次回は女性の『選択的バイセクシュアル・アーティスト』について書く予定」、と記したんですが。

その前に、「選択的バイセクシュアル・アーティスト」の概念について、今一度、内容を整理したいと思います。

何よりも、これを書いている本人が、頭の中身を整理したいので。



さてさて。

「選択的バイセクシュアル」という言葉は、「選択的レズビアン」という言葉が基になっています。

この「選択的レズビアン」っていうのは、

「自分の意志で、それも、多くは政治的・フェミニズム的意図をもって、レズビアンであることを選んだ人」

――のことです。

この概念の範囲をもう少し拡大したものが、件の「選択的バイセクシュアル」です。



これを提唱したりょうたさんは、「選択的バイセクシュアル」について、次のように記しています。

「そういうアクティブな政治的な意味とは、たぶん関係ない。(ナタリー・)ポートマンのように『異性だけじゃなく両性愛せたらいいんじゃない?』とバイセクシュアル体験に期待感を抱く人」



……で。

こうした人たちは、パッと見、性的指向がどっちつかずでフラついているように見えるので、うさん臭く思われがちです。

しかも、ノンケとLGBTの双方から。

同性愛に偏見のあるノンケからしてみれば、「同性愛に興味があるなんて気持ち悪っ! ていうか、変態じゃね?」(何故ギャル口調)

LGBTの当事者からしてみれば、「ノンケのくせに同性愛のフリしてんじゃねーわよ」とか、「ホントはバイのくせに、今さらノンケぶってんじゃねーわよ」ってな感じで。



でも、ですね。

「基本はノンケ、でもバイセクシュアル体験にもチョット興味あり」というのは、実はこれはこれで、性的指向の1つの形なんじゃないの?

とも思うんですよ。私は。

なぜならば。

性的指向は、本人以外の誰にも決めつけることはできないから



だとすれば。

「基本はノンケ、でもバイ体験にも興味アリ」というのも、これはこれで、立派な1つの性的指向の形かもしれないでしょ?

その可能性を否定できる人、いらっしゃいます?

ていうか、いたらスゴいよね。

それこそ、学者先生もどビックリの大発見ですよ。

だって、性的指向を証明する手段とか根拠とか、そんなもの、世界中のどこを探してもないんだもん。

あるとしたら、それはその人の自己申告だけ。

でしょ?



「基本ノンケ、でもバイ体験にも興味アリ」というのが性的指向の1つだとすれば。

そうした性的指向を持った人たちを、「ノンケのくせにバイのふりしてんじゃねーよ」とか、「ホントはバイのくせに、ノンケ面してんじゃねーよ」みたいに批判するという行為は、たとえばタブロイド紙がクロゼットの有名人の性的指向をあーだこーだと憶測して、「ゲイ疑惑!」とか「ゲイ・スキャンダル!」とか言っちゃって、当事者でもないくせにカミングアウトを強迫しているのと、実はそんなに大差ないんじゃないの?

と、私は思います。

そういうことを、私はしたくありません。



なので、「基本はノンケなんだけど、バイセクシュアル体験も1つの『選択肢』としてアリ」という欲求を、性的指向の1つの形と捉え、それを「選択的バイセクシュアル」と呼んでみましょう、っていうわけなんです。

ここまではよろしくて?
セイラさん


しかしながら、「選択的バイセクシュアル」であることをカミングアウトしている有名人の発言には、LGBTへの勘違いとか、拭いきれないホモフォビアの傾向などが、往々にして見られます。

というのも、「あたしったらバイ体験にも興味があるの!」という発言は、今の世の中では、「こんなにもリベラルなアタシ」をアピールする手段としても機能してしまうからです。

だからといって、バイ体験への興味を示している有名人の全てが、「こんなにもリベラルなアタシったら、ちょっとクールじゃね? だべ? だべ?」とアピールしたがっていると決めつけてしまうのも、それはそれでいかがなものかと思われる。

たとえば、この世の中には、「基本はノンケなんだけど、実はバイ体験にも興味がある」という人たちが、そうした性的指向をカミングアウトできずに悶々としているという可能性だって、当然あるわけですよ。

そうした一般の人たちがですよ、自分と同じような性的関心を公言している有名人たちが、ノンケの人たちからは「気持ちわりーこと言ってんじゃねーよ、ボケ」と攻撃され、LGBTの人たちからは「ホントはバイのくせにノンケのふりしてんじゃねーわよ」とか「ノンケのくせに同性愛をわかったふりしてんじゃねーわよ」とか叩かれているのを見たとしたら、いったいどういう気分になると思います?

たぶん、メチャメチャいたたまれない気分になると思うんですよ。

まるで自分自身が責められてるかのような。

きっと、抑圧を感じると思うんです。

そんな思いを、させてはいけないでしょ?



だから、「基本はノンケ、でもバイ体験にも興味アリ」という人たちのために、そうした性的関心を公言してきたアーティストたちの系譜を、反面教師的な例も含めて、ここで検証していきましょう!

というのが、ここ一連の「選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜」の主旨です。

ちなみに、ですね。

「選択的バイセクシュアル・アーティスト」というのは、バイとノンケの二者択一で強いて分類するならば、ノンケです。

でも、性的指向というのは、二者択一で割り切れるほどシンプルなものではあり得ないんだから、「バイ体験にも興味のあるノンケ」の人たちが、ホモフォビアに脅かされて自分を責め立ててしまったり、あるいは既成のLGBTの中に自分の居場所を見出せずに疎外感を覚えたりしなくてもすむように、そうした人たちのお手本となるべき人を、ロック/ポップスの分野に探していきましょう!

と、そういうことです。

よろしくて?
セイラさん


で。

一口に「選択的バイセクシュアルのアーティスト」と言っても、その中には、やっぱりいろんなタイプのアーティストが含まれてきます。

単に音楽のジャンルがまちまちというだけでなく、同性愛をどう理解しているかという点でも、ホントに十人十色。

でも、それはLGBTをカミングアウトしているアーティストたちについても同様に言えることです。たとえば、オープンリーのLGBTのアーティストたちの全員が、異口同音に同性婚に賛成しているわけではありません。有名どころでは、ボーイ・ジョージは同性婚を、「ノンケの価値観に迎合している」として批判しています。

でも、そうした発言だけを論拠にして、「ボーイ・ジョージはLGBTのロール・モデルにはふさわしくない」と断じることなんて、できないでしょ? 「そういう意見の人もいる」という、その程度のことでしかないでしょ?

それと同じことで、「選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜・その1」の中で、私はデヴィッド・ボウイやブレット・アンダーソンの同性愛理解を、わりと批判的に書いてはいますが、それはあくまでも、「こういう人たちもいる」という程度のことに過ぎません。

「この発言はちょっと変だから、選択的バイセクシュアルという性的指向自体も、やっぱりおかしい」と決めつけているわけではないです。

だいたい、そんなこと一言も書いてないし。

これを読んでくださっている人たちには、そうした誤解のなきよう、くれぐれもお願いいたします。なんでこんなふうに念を押しているのかというと、「系譜・その1」を読んだバイのかたが、そういう誤解をされていたので。

よろしくて?
セイラさん


で、今まで紹介してきた選択的バイセクシュアル・アーティストを大雑把にタイプ分けすると、デヴィッド・ボウイは、「選択的レズビアン」の概念に、ほぼ重なるアーティストです。

つまり、政治的・フェミニズム的意図があってバイセクシュアルを選択したアーティストに、非常に近い。

まあ、政治的という言葉は、この場合はいささか大げさなんですけど。

ロックという音楽は、もともとはカウンター・カルチャーとして発達したものです。つまり、反体制的な音楽、ってことですね。それ以前のアメリカのヒット・チャートは、イージーリスニングとか、ブロードウェイのヒット・ミュージカルからのナンバーが中心でした。

しかし、ビートルズが圧倒的な大成功を収めて以降、ロックは主流の文化になってしまいました。したがって、ただロックであるというだけで、それが即カウンター・カルチャーの意味を成すというわけにはいかなくなってしまいました。

そこで、その次の段階として、今度はそれらを演奏するアーティストたちの思想・姿勢こそが、カウンター・カルチャーとしての機能を果たすことになっていったのです。それは1970年代初頭のこと。

つまり、デヴィッド・ボウイがデビューした時期です。

ロックのアーティストがバイセクシャルを公言するのは、要するにロックがカウンター・カルチャーとして機能するためのプラグインみたいなものだったんです。

「オレさまったらバイセクシャルなんだぜー」という態度こそが反体制的でカッチョいい!(死語) という、そういう時代だったんです。

それを実践していた代表格が、デヴィッド・ボウイと、あとはローリング・ストーンズのミック・ジャガー。

ボウイもミック・ジャガーも、現在では「注目を浴びるためにバイセクシャリティーを弄んだ」として、ゲイ・カルチャーからは批判の対象とされることのほうが多い。

ただ、少なくともボウイに関しては、その視覚的センスやコンセプチュアルな世界観が、ゲイのリスナーに大きくアピールしたため、後続のLGBTアーティストに大きな影響を与えました。それは誰にも否定はできません。



グリーン・デイのビリー・ジョー・アームストロングの場合は、「同性にも性的興味はあるけれども、それを実践したことはない」ということを公言したアーティストです。

その発言は、おそらくはLGBTの擁護が目的の、かなり政治的なものなんだろうとは思うんですが、「同性にも性的興味がある以上、俺はバイセクシュアルだ」と言い切ってしまうその潔さは、たとえば「バイセクシュアルはクールなんだぜー」とか、あるいは「こんなにもリベラルなアタシったら、ガールズのオピニオン・リーダーって感じ?」みたいな態度とは、根っこが全然違います。

加えて、「俺は同性愛について曲を書けるほど、同性愛について多くのことを知っているわけではない」という発言は、むしろビリー・ジョーが、「わかったふりをすることのほうが、場合によっては、より大きな侮辱にもなり得る」ということを、きちんと理解している証左です。

「基本ノンケ、でもバイ体験にも興味アリ」という「選択的バイセクシュアル」の人には、ビリー・ジョー・アームストロングは、いろいろと参考になる部分の多いアーティストだと思います。



そして、元スウェードの、ブレット・アンダーソンなんですが。

「系譜・その1」で紹介した、ボウイとブレットの対談を読んで、ブレットの発言に「うんうん、わかる! 自分のことみたいにすごくよくわかるわー!」と共感できたっていうLGBTの人って、ほとんどいないと思うんですよ。

いるとしたら、その人は、何らかの脳内補完を行なっているはずです。

たとえば、「本当はブレットはゲイ寄りのバイなんだけど、自分の性的指向を100%認めてしまうのには抵抗があって、だからといって自分を偽ってしまうのも嫌で、歌詞の中では自分がバイであることを忌憚なく晒しているんだけど、でもそれ以外のインタヴューとかでは、『曲とプライヴェートは別物』とか言って、ノンケのふりをしてるんだろーなー」とか、そんな感じで。

そういうふうに考えていくと、ブレットの発言が理解し易くなるのは確かです。

ただ。

性的指向は、本人以外の誰にも決めつけることができません。

である以上、そうした解釈の仕方は、実はタブロイド紙の「ゲイ疑惑!」などと同じ、「外部からの性的指向の押しつけ」になってしまいます。

だから、ブレットの性的指向に関する発言というのは、たとえそれが意味不明なものであっても、そのまま額面どおりに解釈するのが、いちばん公正な見方なんです。

「いまいちピンと来にくいんだけど、でも、この人の性的指向は、こういうふうなのねー」と受け止めれば、それでいいんです。

きっとブレットも、あれこれ行間を読まれたくはなかったはずです。彼にホモフォビア的傾向があったのなら尚のこと。(←言ってる先から脳内補完してるので、かなり矛盾した書き方なんですが)

「系譜・その2」へのコメントで、このブログの常連のマーガレットさんや、る~さ~さんが、ボウイとブレットの対談は理解しづらかった、という主旨のことをおっしゃっていたんですが、それは至って真当な反応なんです。マーガレットさんや、る~さ~さんの読解力に、何ら問題があるわけではありません。

そんじょそこらのヘタなオカマよりもはるかにゲイ・カルチャーに精通しておられるマーガレットさんや、非・選択的なゲイであるる~さ~さんが、ブレットの発言にピンとこなかったのは、当然のことなんです。

むしろ、あれこれと脳内補完をしながらブレットの発言を読むほうが危うい、と私は思います。



てなわけで。

「選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜」の、これまでの内容整理は以上です。

人によっては、「いったいこれのどこが内容の整理なんだっつーの」と思うかもしれませんが、誤読されたくない部分についての補足解説を、一度は間に挟みたかったので、まあ、これはそういうもんだと思ってください。

よろしくて?
セイラさん


くどいですか。
そうですか。




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2007.05.10 Top↑
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