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GtMフライヤー10月17日に東京・初台のライヴ・ハウス、TheDOORS で行なわれたGtM (Girls to Men)のライヴを観てまいりました。9月23日のお披露目ライヴに続いて、これがGtMにとって2回目のライヴとなります。

GtMは、当ブログの9月24日付のエントリでも紹介させていただきましたが、4人のメンバーのかた全員がFtM (Female to Male)のアイドル・ユニットです。

私は前回のお披露目ライヴには足を運ぶことができなかったので、今回がGtMの初体験となりました。

司会を務められたのは、アイドル・グループ・制服向上委員会の会長の橋本美香さんと、総合音楽家としてマルチに活躍なさっている和久井光司さんのお二人。そしてゲストには、頭脳警察のパンタさんが登場なさいました。

GtMはまだデビューしたてで、持ち歌が少ないことから、現時点では司会のお二人とのトークがライヴの中心となります。しかし、今後持ち歌の数が増えていっても、GtMのライヴにおいてトークは重要な位置を占めるだろうと思いました。

そう思った理由は、もちろんトークが楽しいからというのもあるのですが、それだけではなく、GtMのみなさんのトークというのは、私たちオーディエンスに「気づき」を与えてくれるものだからなんです。



日ごろから「LGBT」という言葉を多用している私ですが、その言葉に包含されている性愛観や身体感覚のすべてを、等しく自分のものとして実感できているわけではありません。私は異性愛経験を全く持ったことのない男性同性愛者なので、男性同性愛の性愛観や身体感覚しか経験的にはわからないし、それ以外は実感し得ない。そんな私が女性同性愛や両性愛、GIDのかたの性愛観や身体感覚を理解したいと思うならば、結局は想像力で補うしかないんです。ところが、想像力というものは、その人の人生経験の如何によって精度が大きく左右されるし、それによって自ずと限界も生じます。フィクションを組み立てるための想像力と、現実の存在である人と人とが互いをより良く理解しようとする際に必要とされる種類の想像力とは、実は全くの別物で、その研鑽は後者のほうがはるかに難しい。だから、最終的には当事者の生の声を聞かなければ気づくことのできないものが、「LGBT」という言葉を多用している私にも、やっぱりたくさんあるんです。当然、間違った理解の仕方をしている事柄だって、たくさんあるはずです。

正直な話をすると、私にとって女性同性愛や両性愛、トランスジェンダーのかたたちというのは、身内のようでいて、実はいちばん遠い存在です。「LGBT」という言葉を多用しているわりには、G(ゲイ)の友人の数に比べて、L(レズビアン)やB(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)の友人の数が、圧倒的に少ないんですね。LやBやTの友だちももっともっと欲しいんだけど、ふだんの生活の中で知り合える機会は少ない。だから、そうしたかたたちの生の声を聞く機会も少ない。

そんな私が性の多様性について力説したところで、それは所詮、男性同性愛者からの目線でしか語り得ていないものだという、情けなさと歯がゆさがあります。

そして、実は私だけでなく、おそらくはLGBTのかたの大半が、LGBT相互の関わりを、それほどには持っていないという気がするんです。

ゲイの人権活動家とか研究者のかたであれば、レズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたとの接点はたくさんあると思います。しかし、そうした活動に携わっていないゲイのかたが、ふだんの生活の中でレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたと接点を持つ機会は、そんなにはないと思うんですよね。

レズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたたちの側でも、似たような状況がたぶんあると思います。というのも、カミング・アウトをして社会生活を送っているゲイ男性の数は決して多くはないから、意識的にゲイ男性と関わりをもつ機会を作らない限りは、ふだんの生活の中でゲイのかたの生の声を聞くことは、ほとんどないんじゃないでしょうか。

もっと言ってしまうと、同性愛者のあいだでもミソジニー(女性嫌悪)やミサンドリー(男性嫌悪)といった嫌悪感情をむき出しにしているかたは現実問題として多いし、「私は異性愛の女性である」という性自認と性的指向を持っているMtF (Male to Female)のかたが、LGBTという言葉で同性愛者と一括りにされるのは不本意だと公言なさっている例もあります。

性的少数者のあいだでさえそのような溝があるのだから、ましてやそこに属していないかたたちがLGBTの生の声を聞く機会は、意識的にそれを求めない限り、そうそうないと思うんです。

インターネットを用いれば、自分とは違う(と自分では思っている)世界に生きている人たちの声を聞くことは、確かに可能です。しかし、それにもやはり限界があるはずなんです。インターネットというものは「自分の側から情報を探しに行く」という性質の強いものだから、たとえばレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーのかたたちの声に無関心なゲイ男性のかたたちが、インターネットを通じてそれらのかたたちの声を耳にするということは、ちょっと考えにくい。

ゲイの当事者でさえ、そういう具合なんだから、いわんや、性的マジョリティのかたをや。

インターネットというものは、ほとんどの人たちにとっては、あくまでも既に関心のある事柄についての理解を深めるためのツールとして機能しているのではないでしょうか。自分を顧みてそう思うんです。そして、インターネットを通じて関心の範囲を自ら拡張していくことのできるかたたちというのは、たぶん最初からそのような努力とか工夫を意識的になさっているかたたちなのだと思います。

だからこそ。

性同一性障害や、その他の性の問題に関心のないかたたちに、新たに関心を持ってもらいたいと思うなら、GtMのようにマス・メディアに打って出るユニットの存在は、非常に大切なものである、と私は考えています。



10月17日のGtMのライヴでは、前回のお披露目ライヴのあとの、マス・メディアからの反響について、メンバーのみなさんがお一人ずつ話をされました。Google の検索語ランキングで「GtM」が6位まで上昇したというお話も出てきたんですが、これというのは、新聞・テレビの報道や、それらを転載したニュース・サイトの記事でGtMの存在を知ったみなさんが、より詳しい情報を求めてネット検索を行なった、という流れのはずなんですね。

この流れというのは、関心を持ってもらう最初のきっかけとしては、インターネットよりもマス・メディアのほうが、少なくとも2010年の現時点では、依然としてアドバンテージがある、ということを示しているのではないでしょうか。

性的少数者のタレントのかたや歌手のかたがマス・メディアに登場することの意義というのは、ここにあると私は思うんです。

より良き理解の最初の一歩として、まずは関心を持ってもらう、ということ。

私がGtMの存在を知ったのは Twitter がきっかけで、しかもまだGtMというユニット名も決定していないころだったのですが、それはたまたま私という人間がLGBTの歌手やミュージシャンに最初から大きな関心を持っていて、そうした関心のもとにソーシャル・ネットを利用していたからなんですよね。だから私のようなケースは極めて稀のはずで、そうではなくトランスジェンダーにそれほど関心のないかたがGtMの存在に興味を示してくれたのだとすれば、それはマス・メディアの報道の力があったればこそなんです。

ところが、マス・メディアの力というのは、そのトピックに深い関心を持っていない人たちに新たに関心を持ってもらうには有効であっても、そこから理解を深めてもらうには決して有効とは言えないという部分があると思います。それがマスである以上、どうしても最大公約数的な性質の内容しかマス・メディアは伝えられない。だから、関心を持ってくれたかたたちに、より以上に理解を深めてもらおうとするならば、マス・メディアへの露出だけではむしろ限界があるんです。

そこで今回のライヴのような場が、GtMのみなさんにとっても、それからGtMに関心を持たれたみなさんにとっても、いちばん重要な空間になってくる、と私は思うんですね。

なぜなら、ライヴという場にこそ、関心を持った次の段階で初めて得られる、さまざまな「気づき」があるからです。



今回のライヴで披露されたのは、12月1日に発売されるライトなR&B調のファースト・シングル「声を聴いて~エコーズ~」と、アップテンポのカップリング曲「人として」の2曲。そしてライヴのエンディングには、制服向上委員会のメンバーのみなさんもコーラスに加わっての、「声を聴いて~エコーズ~」が再度パフォーマンスされました。

CDが発売されるのはこれからなので、正確なクレジットはわからないのですが、トークの内容によると、「声を聴いて~エコーズ~」を作曲されたのは司会を務めておられた橋本美香さん、そして「人として」を作詞・作曲されたのがもう一方の司会でいらっしゃった和久井光司さんのようです。

和久井さんは、曲紹介のトークの中で、「人として」の歌詞はGtMのメンバーのみなさんのプロフィールを基に書いたもので、メンバーのみなさんの気持ちを代弁したものになっていると自分では思っている、とおっしゃっていました。おそらくは橋本さんも同様の思いで「声を聴いて~エコーズ~」を作曲されたのだと思います。この2曲を私が素晴らしいと思ったのは、そのようにして書かれた2曲が、2曲とも非常に明朗な曲調の作品であった、ということなんです。

少数者の声を代弁するという意図の下に書かれた曲は、過去の例を見る限りでは、えてして悲壮な曲調になりがちなんです。アーティスト本人が書いた場合でも、外部のソングライターが書いた場合でも、そこに「差別との闘い」というニュアンスを持ち込んでしまうと、かえって悲壮味が増してしまうんですね。

ところが、和久井さんや橋本さんがGtMのために書いた曲は、そうではないんです。

GtMのメンバーのみなさんにとって、音楽とは、決して闘争とかロビーイングの手段ではないはずなんです。音楽を通じて、理解と融和、そして本来の自分を生きることの喜びを広げていきたい、それこそが、メンバーのみなさんの願っていることのはずです。たぶん和久井さんも橋本さんも、そうしたメンバーのみなさんの気持ちを、しっかりと汲み取っておられるのだと思います。そして、その願いを、明朗な曲調の中に託されたのではないか――私はそう感じました。

ちなみに、和久井さんはトークの中で冗談めかして、「歌、もうちょっと上手くなってね(笑)」とおっしゃっていましたが、確かにスキルの面ではGtMは未完成であるかもしれません。しかし何かが不足しているという印象は、私には全く感じられませんでした。

どれだけ完成された歌唱力の持ち主であっても、人の心を動かす何かを決定的に欠いてしまっている歌手の人って、実は珍しくもないでしょ? 誰とは言わないケド。

でも、GtMはそうじゃない。

これらの曲を歌うGtMのみなさんの姿からは、「ここでこうして歌えることの喜び」のようなものを、強く感じました。本来の性を生きていくことで叶えられる自己実現と、歌とダンスによって果たされる自己実現。この2つの自己実現が、GtMのみなさんのパフォーマンスに、強い輝きを与えているんですね。



私は先に、「これから持ち歌の数が増えていっても、GtMのライヴにトークは欠かせない要素になるだろう」と書きましたが、だからといって、歌やダンスの全くないGtMのライヴなどは、ゼッタイに考えられない。

GtMのライヴは、厳然として歌とダンスが先ずありきのものなんです。

歌やダンスといったパフォーマンスを通じて自己実現を果たしている、そんなかたたちだけが伝えることのできるものがあります。

それは、希望です。

GtMのライヴには、それがある。

私のようにただ文章をネット上にダラダラと垂れ流しているだけの人間にはゼッタイに伝えられないものを、GtMのみなさんは、伝えることができるんです。

それが、希望です。

このブログをご覧になってくださっているみなさん、ぜひご自分の心に問いかけてみてください。私のように、頭で考えた理屈をこねくり回しているだけの人間が語る言葉と、GtMのみなさんのように、歌やダンスを通じて自己実現を果たしているかたたちがステージから語りかける言葉と、どちらに心を動かされるか。

どちらの言葉に、希望を感じることができるか。

思想や論理だけでは、人の心は動かない。

人の心を魅了する歌とダンスで自己実現を果たしているかたたちにしか伝えられないものが、GtMのライヴにはあるんです。

GtMのみなさんの歌やダンスがキラキラと輝くものであればあるほど、メンバーのみなさんの生の声は、我々オーディエンスにとって、大きな希望となるんです。



性同一性障害の当事者のかただけでなく、同性愛のかたにも、性的にはマジョリティのかたにも、そして性別や性的指向の違いがもたらす垣根と向かい合って生きている、そんなありとあらゆるかたたちに、私は、GtMのライヴを、実際に観てもらいたい。


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2010.10.24 Top↑
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