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1月9日に二子玉川の Lasah にて開催された、鹿嶋敏行さんのワンマン・ライヴを拝見後に、鹿嶋さんからいただいた言葉が、とても印象に残っています。

「やっと『普段着』のステージを観てもらえた」

それまで藤嶋が観てきた鹿嶋さんのステージは、たとえば第1回LGBT音楽祭であったり、すこたんソーシャルサービスさん主催のライヴであったり、あるいは『ソラニワ』であったりと、いずれもLGBTの主題性が強いものだったんですね。

これらの鹿嶋さんのステージが、鹿嶋さんにとっても特別な、通常とは異なる性質のものであることは藤嶋にも想像できていたし、実際1月9日の Lasah でのワンマンは、藤嶋がこれまでに観てきた鹿嶋さんのステージとは明らかに印象が異なっていて、そのことはライヴ・レポのほうにも記しているのですが、それを読んでくださった鹿嶋さんから、前述のお言葉をいただいたときに、その「普段着」という表現に、藤嶋はハッとさせられたのです。

これって、単に出演イヴェントの性質が異なっているというだけの話ではないのだなー、と。



ゼロ年代前半のころは、LGBTミュージシャンが一同に集うライヴ・イヴェントが、東京でも頻繁に開催されていました。特に2002年から2004年にかけては、ゲイ・インディーズの対バン・ライヴ・イヴェント『Ball de Musa(バル・ダ・ムサ)』が、新宿一丁目のライヴ・ハウス HEAD POWER を会場に、なんと隔月で(←今じゃ考えられない話だけど)、開催されていました。そして、そのようなゲイ・コミュニティの音楽イヴェントをホームとしているミュージシャンも、大勢いたんですよ。ゲイ・インディーズの黎明期を牽引した genetic LOADGALE といったユニットは、まさしくそういうミュージシャンでした。

つまり、ゼロ年代の前期は、ゲイ・インディーズのライヴ・イヴェントに足を運びさえすれば、それだけで大勢のLGBTのインディー・ミュージシャンのみなさんのパフォーマンスに触れることができたし、そこでのパフォーマンスこそが、それらのミュージシャンのみなさんの「普段着」のステージだった、ということなんです。

でも、今はそういう時代ではないのだよなー、と。

ゼロ年代初頭のころから日本のゲイ・インディーズ・シーンを追いかけてきた習い性で、これまで藤嶋がもっぱら足を運んでいたのは、LGBTのミュージシャンが一同に集うライヴ・イヴェントが中心でしたが、現状下でそうやって腰が重いままでいると、「LGBTミュージシャン」であることを引き受けて音楽活動を行なっているみなさんの、「普段着」のステージを知らずにいることになってしまう。

そのことを、鹿嶋さんの言葉によって実感したのです。

     ☆

さてさて、長ーい枕は、これにておしまい。ここからがようやく本題。

2月23日、秋葉原 PAGODA にて開催された、『店長 SHIDA-X 俺様わがまま Birthday 5Days』1.st Day に、藤本大祐(ふじもと・だいすけ)さんと、藤井 周(ふじい・あまね)さんのおふたりが、そろって出演されました。

この秋葉原 PAGODA は、藤本さんと周さんの、ホーム・グラウンドです。

そして藤嶋は、今まで PAGODA に足を運んだことがありませんでした。

これっていうのは、つまり。

藤嶋は、藤本さんや周さんの「普段着」のパフォーマンスを、今まで一度も観ていない、ということになるわけです。

特に藤本さんについては、初めて彼のライヴ・パフォーマンスに接してから、それなりの年数が経過しているというのに、いまだに彼の「普段着」を藤嶋は知らない、ということ。

ダメじゃん、アタシ!

というわけで、藤本さんと周さんの「普段着」のパフォーマンスを観るべく、藤嶋は秋葉原 PAGODA に初上陸をしたのです。



この日のライヴは、PAGODA の店長さんのバースデー企画の初日。PAGODA をホーム・グラウンドになさっているミュージシャンのみなさんのうち、アコースティックのスタイルを本領としているみなさんが、この初日には集まっておられました。

藤本さんも周さんも含め、この日の出演者のみなさんのほとんどが、店長の SHIDA-X さんとは、10代後半からのお付き合い。どのみなさんも、SHIDA-X さんのことを兄のように、あるいは父親のように、とっても慕っていらっしゃって、藤嶋がこれまでに観てきた対バン・ライヴでは考えられないほどの、温かい、家族的な雰囲気にあふれていました。

アコースティックと一口に言っても、そのテイストは実に多岐に渡っていました。アコギによる明朗なフォーク・ポップのかたもいれば、エレキ・ギターを6弦ベースふうに鳴らして、ジャジーなブルースを聴かせてくれるかたもいる。アコースティックというしばりの中で、これだけヴァラエティに富んだミュージシャンのみなさんが集まっていたのは、店長の SHIDA-X さんが、そうしたヴァラエティの豊かさという部分にも充分に気を配っていらっしゃったからだと思います。



藤井 周1さて、我らが藤井 周さんは、もちろんピアノの弾き語り。3番手として登場。

これが周さんの「普段着」のステージだからこそ、かねてからうわさに聞いていた、びろうな内容の炸裂したMCも、たっぷりと堪能できました(笑)。

この日のセット・リストは、全曲がCD未収録作品。そのことを周さんが事前に公式サイトや Twitter を通じて予告していたのも、私がこの日のライヴに足を運んだ大きな理由の1つでした。

1曲目の「五線譜」に続いて、既に『ソラニワ』で披露していた「マジョリティ マイノリティ」を、LGBTのライヴ・イヴェント以外の、「普段着」の場でも、こうして熱唱してくれたのは、本当に嬉しかったな。さすがは周さん、カッコイイ!

3曲目の「ともだち」は、嫉妬や羨望といった心の暗闇を、真正面から見据え、オーディエンスに突きつけてくる曲。4曲目の「らんまん」は、春の訪れと希望を歌った、はつらつとして前向きな曲。この明暗のコントラストの鮮烈さは、まさに周さんならではの世界です。

藤井 周2そして5曲目、セット・リストの最後の曲「奏音」を、藤嶋は両の目から涙をボロボロと流しながら、聴きました。

この「奏音」は、店長の SHIDA-X さんへのバースデー・プレゼントとして、周さんが新たに書き下ろした曲です。そのタイトルは、現在4ヶ月の SHIDA-X さんのご長男のお名前。「かなと」と読みます。

そして、この「奏音」という曲は、まだ赤ちゃんであるはずの奏音くんの目線と一人称で、ご両親である SHIDA-X さんとその奥様への感謝と愛を、歌い上げた作品なんです。

あー、思い出すだけでも本気で泣けてくるよー。

周さんってば、なんてスゴい曲を作る人なんだろう。

ユニセックスボイスの周さんだからこそ、説得力をもって歌えた曲だと思う。周さん以外の男性シンガーが歌っても、そして女性シンガーのかたが歌っても、周さんのような説得力は、出せなかったはず。

周さんでなければゼッタイに作れない、歌えない曲。

そして周さんは、「奏音くんにはこういうふうに育ってもらいたい」と思ってこの曲を書いたのではないと思う。もしもそうだったら、もっと大人目線の、説教くさい曲になっていたはず。でも、「奏音」という曲は、そうではない。この曲の中にあるのは、訓話めいたところのない、ひたすら純粋な、両親への感謝と愛だけ。

だから、周さんはきっと、「奏音くんはまだ4ヶ月だけど、でもゼッタイにこういうふうに感じているに違いない」という確信をもって、この曲を書き、歌ったはず。

なぜなら。

周さん自身が、ご家族への感謝と愛にあふれているかただから。

自分をこの世に産み落としてくれた染色体の奇跡に感謝する気持ちを、いつだって忘れずにいらっしゃるかただから。

藤嶋は SHIDA-X さんとは面識がなく、奏音くんの存在すらも全く知らなかったのに、そんな藤嶋でさえ、この「奏音」を聴いてボロボロ泣いてしまったのだから、いわんや当の SHIDA-X さんをや。

この日、SHIDA-X さんは司会進行役で、出演者の入れ替わりの時間を、愉快なMCで繋いでいらっしゃったんだけど、周さんの「奏音」の演奏と歌には感極まってしまって、周さんの出番が終わっても、しばらくは司会進行に戻れなかったほど。

周さん、あなたは本当にスゴい人だよ。

こんなにも純粋な愛にあふれた曲を作り、そして歌うことができるなんて。

なんかね、これだけ「奏音」という曲を絶賛しておいて、こういうことを言うのもアレなんだけど、これからのライヴで、「奏音」のパフォーマンスは、出し惜しみしてほしいかも(笑)。

だって、この曲は、SHIDA-X さんにとっては、大事な宝物になったはずだから。

SHIDA-X さんのアニヴァーサリーのときにだけ、大切に歌ってあげてほしいな。

まあ、もちろん、そうしたことは周さんが決めるべきことであって、藤嶋が口出しするような話ではないんだけどね(笑)。

何はともあれ、この曲が SHIDA-X さんに捧げられた初めての瞬間に、こうして立ち会えたことを、藤嶋は幸福に思っています。

藤井 周3




藤本大祐1そして、藤本大祐さんは、トリとして登場。

鹿嶋さんや周さん以上に、「普段着」のパフォーマンスではこうも印象が変わるのか! とビックリさせられたのが、この藤本大祐さんのパフォーマンスでした。

今回の場合は、ひょっとしたらトリとして登場したというのも大きな要因として働いているのかもしれないんだけど、この日の藤本さんには、

アウェー感が、全くなかったんです。

あ、これでは表現が良くない。

「余所行き」感が、全くなかったんです。

というよりも、これまでに藤嶋が観てきた藤本さんのパフォーマンスには、実は「特別な機会に余所行きの服を着ている」感が伴っていたのだという事実に、この日はじめて気がついた、と書いたほうが正確だな。

今までは、藤嶋の側で比較対象を持っていなかったから、藤本さんの「余所行き」感に気づくことができなかったんです。

この日の藤本さんは、慣れ親しんでいるホーム・グラウンドでのパフォーマンスであることに加え、トリとしての出演だから、「自分の存在を前面に出すことにためらいがない」というような印象を、藤嶋は受けたんです。

藤本大祐さんというかたは、ご自身が出演されるイヴェントの開催趣旨をとても大切になさるかただし、共演者の存在をないがしろにすることもゼッタイにしないかただから、ホーム・グラウンド以外の場所での対バン・ライヴでは、それが意識的なのか無意識的なのかはわからないんだけれども、何らかの抑制が実は加わっていたんじゃないか、という気が、藤嶋はしたんですよね。たとえば『ソラニワ』でパフォーマンスする場合なら、主役はあくまでも sola さんなんだから、「俺が、俺が」という感じで自分からグイグイと前に出ることはしない、という意味で。

もちろん、これは藤本さんの大いなる美点であると、藤嶋は思っています。イヴェントの開催趣旨などお構いなしに、「俺が、俺が」と自分ばかりをアピールしたがるミュージシャンに、藤嶋が心を動かされることはないです。

イヴェントの開催趣旨を踏まえ、共演者を立てることを知っている、そんな生真面目な藤本さんだからこそ、「普段着」と「余所行き」の違いが発生するのだと思うし、それは鹿嶋さんや周さんの場合も同じように思うんです。

そして、藤本さんの「普段着」は、単にリラックスしているとか、気負いがないとかいうだけではなく、自分の存在を前面に出すことにためらいがなくなるのだな、と藤嶋は思いました。

だから、曲の中で歌われている内容も、藤嶋が今まで知っていた「余所行き」の服を着ているときとは、印象が異なって聴こえたんです。

そのことに、藤嶋は何よりも驚いたんです。

藤本大祐2真摯に生きるためにこそ、ネガティヴな感情からも決して目を逸らさず、意識的に正面から向かい合うという藤本さんの世界観は、藤嶋がこれまでに観てきた藤本さんのライヴにおいては、「心が壊れそうな寸前のところで、それでも踏みとどまって真摯に生きている」という、フラジャイルであるがゆえの輝き、という印象で、藤嶋の目には映っていたんですね。

藤本さんの書く歌詞には、実際そのような内容のものも多いので、藤嶋のこれまでの受け止め方も、あながち間違いではないと思いはするのだけれど、この日の藤本さんのパフォーマンスには、自分の存在を前面に出すことへのためらいのなさや、トリとしての自信や責任感があることで、「ネガティヴな感情にも目を逸らさずに向き合っているからこそ、僕はこんなにも地に足を着けて生きている」、という印象に変化していたんです。

いや、変化しているという言い方は正しくない。

これこそが、藤本さんの「普段着」だったんです。

この日の藤本さんの、「地に足を着けて生きている」という雰囲気は、やっぱりトリを務めていただけあって、一際強い光を放っていました。

これって、ヴォーカルや演奏が力強く安定していたからというだけでは、ゼッタイに説明の利かない部分なんですよ。

音楽って、そんなに簡単に説明のつくものではない。

ネガティヴな感情からも目を逸らさないからこそ、僕はこんなにも地に足を着けて生きているし、生きていられる――それが、藤本さんの「普段着」の姿だったんです。

藤本大祐3




藤本さんと周さんの「普段着」の姿を、しっかりと拝見させていただきました。

お疲れさまでした! そして、感動的なひとときを、どうもありがとう!


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2011.03.01 Top↑
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