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秋分の日の9月23日は、銀座6丁目の Miiya Cafe にて行なわれた、『たけださとしの歌のフリーマーケット実写版「とんちピクルス×鹿嶋敏行 秋分の日の五分五分スペシャル!」』に、お出かけしてまいりました。

全体は3部構成。まず第1部は、とんちピクルスさんのソロ。第2部は、サポートに竹内大輔さんを迎えての鹿嶋さんのソロ。そして第3部が、とんちさんと鹿嶋さん、さらに竹内さんも加わってのセッション・タイム。

とんちピクルスさん1 鹿嶋敏行さん1
鹿嶋敏行さん2 とんちピクルスさん2


とんちピクルスさんと鹿嶋さんの、おふたりの個性の好対照ぶりは、ご本人たちも今回のライヴのMCで「白と黒」「水と油」などといった自虐ジョーク的表現でネタにされていたんですが、藤嶋個人の感触としては、とんちピクルスさんと鹿嶋さんのあいだには、かねてから同じ匂いを感じていたのですよね。ご本人たちにもそのことは以前からお伝えしていたのですが、今回のライヴを企画なさったたけださとしさんも、たぶん藤嶋と似たようなことを感じていらっしゃったと思うんです。

ただ、その同じ匂いというのが何なのか、今まではうまく言語化できていませんでした。でも、今回のツーマン・ライヴを拝見したことで、ようやく言葉になってくれそうです。

とはいっても、厳密な音楽理論に基づいた話などではなくて、限りなく文芸解釈に近い、それでいていささかロジカルに過ぎるものかもしれないのですが。

     ☆

藤嶋によるとんちピクルス論は、既に Queer Music Experience.本編に記しています。その文章は本来 Q.M.E.のために書いたものではないので、文体がガチガチに堅いのですが、この中で述べていることをものすごく簡単にまとめてしまうと、とんちピクルスさんの世界観というのは、将来が保証されている安定した人生からはみ出してしまっている(あるいははみ出さざるを得ない)生き方への、共感とか感情移入によって成り立っている、ということです。

そして、ここからが今回の本題なんですが、そうした種類の共感や感情移入は、おそらく鹿嶋さんにも通ずる要素だと思うんですね。

たとえば、今回のライヴでも歌われた「ヨイトマケの唄」は、我が子の明るい未来のために社会の最下層で必死に働く母の唄です。また、鹿嶋さんが敬愛なさっているエディット・ピアフは、パリの下層社会の出身で、彼女が歌ったシャンソンには、最下層で生きる人々の悲哀を歌ったものも多い。

世間的にはそれが一般的・模範的・理想的とされている価値観から、本人の意思とは無関係に、はみ出さざるを得ない生き方への、共感と感情移入。そして、そのような生き方を受け止め、肯定し、貫いている人々への、敬意と愛。

そのような世界観を、どういった形で表現するのか。

――その方法論の違いこそが、とんちピクルスさんと鹿嶋敏行さんの個性の違いだと、藤嶋は思っています。

裏を返すと、とんちピクルスさんと鹿嶋敏行さんは、たぶん方法論が違うだけで、おふたりの表現者としての目に映っている世界の光景は、限りなく同一に近いはずです。

だから、とんちピクルスさんと鹿嶋さんのコラボレーションでは、おふたりの主題性がぶつかり合うことはない。おふたりの目に見えている世界の光景はたぶん同じだからこそ、おふたりがコラボレーションを行なうとき、そこで際立ってくるものは、主題性の違いではなく、あくまでも方法論の違いなんですね。

つまり、とんちピクルスさんと鹿嶋さんというおふたりの組み合わせは、個性のぶつかり合いではなく、互いの個性を際立たせ合う、相乗効果にあふれたものなのです。

それが非常に良く現れていたのが、今回のライヴの第3部。これはもう、ちょっとしたミラクルでした。

第3部で、おふたりはかまやつひろしさんの「ノー・ノー・ボーイ」をデュエットされました。ここでのとんちピクルスさんは、小道具として用意された黒電話(!)を用いて、小芝居をしながらのパフォーマンス。

とんちピクルスさん+鹿嶋敏行さん1 とんちピクルスさん+鹿嶋敏行さん2


このパフォーマンスは、単にユーモラスなだけではなく、おふたりの個性の性質の違いが、最もわかりやすい形で現れていたように思います。

パフォーマーとしてのとんちピクルスさんは、こう申し上げたら失礼にあたるのかもしれませんが、たとえば真剣に愛の告白をしなければいけない場面で、しかしどうしても気恥ずかしくて、ついつい茶化してしまったり、笑いをとりに走ってしまったりする、そういうちょっとひねくれた内気さを持った男のコのような、そんな一面のあるかただと、私は感じています。だからこそ、「抱きしめたい」のような純情なラヴ・ソングのパフォーマンスは必ず最後に笑いの要素が盛り込まれるし、同じ理由でウクちゃんとのMCがワンセットになっていると思うんですね。

今回の「ノー・ノー・ボーイ」のデュエットでも、一方の鹿嶋さんは、とんちピクルスさんに寄せる全面的な信頼と敬愛を、母性すら感じさせるほど大らかに、全身で表現なさっていたのに対し、とんちさんが繰り広げる小芝居は、鹿嶋さんからの大らかな愛情表現に対する照れくささの表れのように、私には感じられました。

黒電話のコードをモジモジといじる、とんちピクルスさん。もちろん場内は爆笑。
とんちピクルスさん+鹿嶋敏行さん3


でも、おふたりの個性のバランスって、たぶん、この小芝居のとおりだったと思うんです。

はみ出さざるを得ない生き方への共感と感情移入、そして敬意。それがおふたりに共通する主題性であるとするならば、そうした共感や感情移入から生じる愛情を、大らかに、いたわり包み込むように全身で表現しているのが鹿嶋さんであり、はみ出さざるを得ない者たちの悲哀を、シャイネスゆえのユーモアに紛らして表現しているのが、とんちピクルスさんの個性である、と。



そして、「ノー・ノー・ボーイ」のパフォーマンスに続いての、「遠くでひばりもないている」「Moon River」、アンコールでの「夢の中でないた」の3曲のパフォーマンスもすごかった。

とんちピクルスさん+鹿嶋敏行さん4 とんちピクルスさん+鹿嶋敏行さん5


とんちピクルスさんのオリジナルである「遠くでひばりもないている」と「夢の中でないた」は、生きることそれ自体の悲哀が描かれている名曲ですが、その悲哀をとんちピクルスさんが表現するとき、そこには複雑な構造が働いていると、私は思うんですね。

とんちピクルスさんの書く歌詞は、たとえば体育 Cuts が書く歌詞と同様に、予定調和的な1つの解答や救済、安易な解決策などを提示することはない。そのようにシビアな世界観を、ウクレレの軽妙な音色や、キッチュなアレンジ、そして人間味に溢れた優しい歌声によって、救いのなさと対照させるように表現なさっている。それがとんちピクルスさんの持ち味なんですが、これというのはつまり、描かれている物語設定じたいが悲哀の源泉ではない、ということなんですね。

何の救済も解決策もない世界を、「これもまた人生」と肯定し、日々をのどかに、淡々と生きていく――。つまり、描かれている世界観とは全く対照的な、「人生を肯定する」姿勢こそが、とんちピクルスさんの表現なさっている悲哀の性質だと思うんです。

つまり、とんちピクルスさんの表現の構造というのは、悲哀が悲哀としてそのまま歌われているのではなく、ヴォーカルやアレンジとの対照によって、じんわりと滲み出すように浮かび上がってくる、そういう構造なんですね。

このことは、先にも述べたように、感情表現に必ず一ひねりを加える、とんちピクルスさんのシャイネスにも関わりがあるように思います。というより、シャイネスこそが、とんちピクルスさんの核かもしれません。とんちピクルスさんが場面によっては露悪的・偽悪的な側面を披露なさったりするのも、そうしたシャイネスの現れのように、私には感じられます。

こうしたとんちピクルスさんの個性の性質を、「浮き彫り型」という言葉で言い表すならば、対する鹿嶋さんの個性の性質は、「包容型」という言葉で言い表せると思います。

鹿嶋さんは非常に柔軟な表現者なので、出演するライヴ・イヴェントの性質や、コラボレーターとの組み合わせに対応して、重点の置き所を変化させるかたですが、少なくともとんちピクルスさんとの対照ということに限っていえば、鹿嶋さんの場合は、共感や感情移入から生じた敬愛・慈愛の念こそが、その表現の中心になっていると、私には感じられました。

たとえば「ヨイトマケの唄」のパフォーマンスは、これが共感や感情移入だけに支えられていたのであれば、それこそ本家の美輪明宏さんがそうであるように、悲壮味の強い歌唱になっていたと思うんですよ。美輪さんの「ヨイトマケ」は、その悲壮味によってオーディエンスの一人ひとりの中にある慈愛の念が呼び起こされるという構造になっているんですが、鹿嶋さんの場合は、強い共感や感情移入によって生じた、鹿嶋さんご自身の慈愛の念が、その表現の中心になっているように感じられるんです。その慈愛の念に対するオーディエンス側からの共感、そして共鳴こそが、鹿嶋さんのパフォーマンスが生み出す感動の源泉だと思うんです。

鹿嶋さんが「ヨイトマケの唄」をパフォーマンスなさるとき、鹿嶋さんは赤ん坊をそっと優しく抱きかかえるような動きを取り入れていらっしゃいます。この曲の歌詞の中に赤ん坊は出てこないのですが、鹿嶋さんはこの曲を一種の子守唄と解釈なさっていて、それゆえの包容のアクションなのですが、この「包容」こそが、鹿嶋さんの表現の特色だと、私は考えています。

鹿嶋さんは、共感や感情移入の対象を、そこから生じた慈愛の念で「包容」しているんですね。

その意味では、第2部で歌われた「Just Squeeze Me」も、結果として非常に象徴的でした。鹿嶋さんが今回この曲を取り上げられた理由は、即興的な要素が欲しかったからなのだそうですが、とんちピクルスさんとの共演という場において、鹿嶋さんのもつ「包容」という特質がそのまま題材となっている曲が歌われたというのは、ある種のシンクロニシティであったと思います。

そのような鹿嶋さんが、とんちピクルスさんの書かれた「遠くでひばりもないている」や「夢の中でないた」を歌われるときには、悲哀が「浮き彫り」にされるというよりも、その悲哀に共鳴しているからこそ生じている慈愛の念が表されている、そのように私には感じられたんです。

もっと言ってしまえば、鹿嶋さんは、とんちピクルスさんの世界観そのものを、共感や感情移入のゆえに、まるごと優しく包み込んでいたんです。

しかも、今回のパフォーマンスは単なるカヴァー企画ではなく、とんちピクルスさんご本人とのコラボレーションであったからこそ、そうした鹿嶋さんの「包容型」という表現の性質は、同じステージの上に立って一緒にパフォーマンスをなさっているとんちピクルスさんの、「浮き彫り型」という表現性質を、それこそ「浮き彫り」にするかのように、なおのこと際立たせていたんですよね。

これこそが、とんちピクルスさんと鹿嶋さんのコラボレーションによって生じた、事前の計算を超えたケミストリーであったような気がします。

既に初めのほうでも述べているように、とんちピクルスさんと鹿嶋さんの個性の違いは、主題性が相反しているのではなく、あくまでも方法論の違いであって、だからこそそんなおふたりのコラボレーションは、互いの主題性のぶつかり合いには決してならない。むしろ、互いの個性の違いを際立たせつつ、おふたりに共通する主題性が増幅されるという、実に幸せな組み合わせだったと思うのです。

鹿嶋さんの個性は、とんちピクルスさんの「ちょっとひねくれたシャイな男のコ」的な側面を際立たせるものであり、逆にそうしたとんちピクルスさんの個性は、母性すら感じさせる鹿嶋さんの慈愛と、「包容」という特質を際立たせている。

そういう相乗効果が、おふたりのあいだには働いていたと、私には感じられたのです。

それから、「Moon River」のパフォーマンスも素晴らしかった。この曲はとんちさんのオリジナルではなくマンシーニのスタンダードなので、ここで際立ってくるのは、シンガーとしてのとんちピクルスさんの魅力。

とんちピクルスさんの歌声がもつ優しさは、鹿嶋さんの歌声の優しさと、まったく同質。

つまり、とんちピクルスさんの中にも同じように存在している「包容」の要素が、ここでは顔を出していて、それが鹿嶋さんの優しさと1つに溶け合っていたのです。

ちなみに、今回のライヴで撮影した写真のうち、藤嶋のいちばんのお気に入りが、この「Moon River」のパフォーマンス時のもの。とんちピクルスさんが、ウクレレの演奏がつかえそうになったのをグッとこらえたせいで、オリジナルにはない不思議な溜めが発生してしまった瞬間の1コマです。
とんちピクルスさん+鹿嶋敏行さん6

舌をペロッと出すとんちさんの表情がお茶目だし(笑)、そうしたちょっとしたハプニングも含め、とんちさんとの共演を心から楽しんでいる鹿嶋さんの表情も素敵です。



さてさて。

実に長々と書いてきてしまいましたが、最後に、今回のライヴの企画・運営の、たけださとしさんにも、御礼を述べたいと思います。

ご自身が面白いとお感じになったことは、どんどん実行に移していく、そんなたけださんの行動力がなければ、今回のライヴは実現しなかったように思うのです。そのバイタリティーに、藤嶋は敬意を表します。

とんちさん、鹿嶋さん、たけださん。素敵なライヴを、どうもありがとうございました!
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2011.10.11 Top↑
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