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おととわ。vol.1 フライヤー今回は、ライヴの観覧記です。

とはいっても、開催からずいぶんと時間が経ってしまっているのですが。すいません。



3月16日(土)、早稲田の Le Cafe RETRO さんを会場に、写真家の服部敦さん企画のカフェ・ライヴ・イヴェント、『おととわ。Vol.1』が開催されました。

出演は、オープニング・アクトの babooextract さん、そして Men⇔Dy さん、アカクロさん、椎名竜仁さんの計4組のみなさんでした。

これらのみなさんのパフォーマンス自体に、大きな不満や疑問はありません。ただ、イヴェント全体のあり方や、その運営方法といった部分で、私の中にはモヤモヤが残りました。

そのことについて、ブログに書いてしまっていいものかどうか、大いに悩みました。開催から記事の掲載まで、こんなにも長く時間がかかってしまったのは、それがためです。

でも、あえて載せることにしました。

私がこれから記す内容を、運営側のかたがお読みになったら、まず間違いなく、気分を害されるだろうと思います。傷つけてしまうだろうと思います。ひょっとしたら実務上の迷惑をかけてしまうかもしれません。それは本当に申し訳なく思っています。

でも、ここに記した内容が、当日の来場客の一人であった私の、率直な感想と、そして意見です。



私がまず思ったのは、今回の運営側(=オーガナイザーさんと店舗スタッフのみなさん)は、ひょっとしたらカフェ・ライヴを運営するのが初めてだったのかな? ということでした。もしもそうでなかったとしたら、それは申し訳ありません。

しかし、今回の『おととわ。Vol.1』は、カフェ・ライヴの運営にあたっての定石を踏まえている気配が、客の立場からは、あまり感じられなかったのです。

もちろん、カフェ・ライヴの開催に決まった形式などはありません。だから、理屈の上では、どのような形で開催しようとも、どれが正しくてどれが間違っているという話にはならないはずなんですが、しかし、定石というものはあります。

お客さんにより良い鑑賞環境を提供するための工夫として蓄積されてきた、カフェ・ライヴ運営の一般的な定石というものは、確実にあるんです。

それが、残念ながらあまり踏襲されていなかったんです。

その結果、お客さんへの配慮が不充分となってしまい、運営側の「こうしたい、ああしたい」という意図ばかりが、前面に出てしまっていた

とはいっても、運営側がお客さんのことをまったく考えていなかったとは思っていません。それどころか、主催の服部さんは、東日本大震災発生直後の開催となってしまったライヴ・イヴェントにおいて、当日いらしたお客さんがたの安全の確保のために、ものすごく気を遣っていらしたのを、私は実際に目にしています。

人として尊敬もしています。

だから、今回の場合は、ライヴ・ハウスを会場としたライヴ・イヴェントと、カフェを会場にしたライヴとでは、その運営ノウハウも全く変わってくる、ということを、運営側が体験的に知らなかった、ということなのかな? と推測しています。もしもそうでなかったなら、それは申し訳ありません。

しかし、私の受けた印象は、「今回のカフェ・ライヴは、これまでにオーガナイザーが経験として蓄積してきたライヴ・ハウスでのイヴェント運営ノウハウを、そのままカフェに持ち込んだものだったのでは?」というものでした。

そして、それこそがいちばん大きな問題だったように思います。

問題の根幹は、「カフェ・ライヴを対バン形式で開催した」、という点にあるのです。



これは一般論なんですが、ライヴ演奏のための設備を持たない、あくまでも飲食が目的のカフェやバーを会場にして開催されるライヴというのは、大抵の場合は、ワンマンか、多くともツーマンが原則的です。(最初からライヴ・ハウスとしての機能も備わっているカフェの場合は、その限りではありませんが)

その主な理由は、出演者のための控え室、つまり楽屋の設備がないからです。ということは、出演者の数がツーマン以上になると、出演者が待機するためのスペースが、お客さんのためのスペースを侵食してしまう。そうした事態を避けるためです。

しかし、決してそれだけの理由ではありません。

ライヴ演奏の設備がないということは、裏を返せば、そこはライヴの鑑賞にも不向きな場所である、ということなんです。

カフェという場所は、実はライヴの鑑賞には、あまり適していません

ということは。

テーブルと椅子と美味しいご飯さえあれば、無条件で快適な鑑賞環境が実現されるというわけでは、全然ないんです。

たとえば、テーブルの形状や配置の仕方によって、鑑賞環境の良し悪しは、いくらでも変化します。

そもそも、カフェやバーといった空間は、そこに集ったお客さんの視線と体の向きを、同じ一定方向に向けさせることを前提としてはいません

だからこそ、テーブルの形状やそのレイアウトが非常に重要になってくるし、店舗のキャパシティや出演者の顔触れと知名度に基づく集客の大小によっては、テーブルは一時撤去したほうが、お客さんにとってはより快適な鑑賞環境になる場合もあるんです。

というのも、テーブルや椅子といった家具は、実は店舗スペースを狭めてしまうものであり、かつ、お客さんの動線を著しく限定したり、遮ったりしてしまうものなんですね。

このブログに観覧記を掲載しているカフェ・ライヴのケースで言えば、昨年(2012年)10月31日開催の、とんちピクルスさんのレコ発ライヴ『10" PICKLES SHOW』の場合は、店内のテーブルを一時的に撤去していました。それによって、お客さんがライヴを楽に観られるように、お客さんの体の向きを一定方向に向けさせると同時に、動線を整理していたのです。

そして、対バン形式のライヴ・イヴェントというものは、お目当ての出演者の出番に合わせて入退場するお客さんが、たくさんいらっしゃいます。したがって、演奏時間内の客の出入りがどうしても頻繁になってしまいます。対バン形式のライヴ・イヴェントを企画する場合には、それを前提条件としなければいけないし、実際に前提としていたのだと思います。

ところが、この、客の途中入退場が頻繁、という前提条件が、カフェ・ライヴには決定的に不向きなんです。

カフェが会場の場合、客の途中入退場が頻繁であることから発生する、店内の動線の混乱が、オーディエンスの集中力を著しく疎外するんです。

これがオール・スタンディングのライヴ・ハウスの場合ならば、客の動線を限定したり遮ったりするような余分な家具や内装は最初から省かれているので、人がたくさんいることからくるストレスは、実は少ないんです。

ところが、キャパの小さなカフェが会場で、しかもテーブルと椅子が平常時と同じように並べられていて、本来なら人が立ち止まることを前提とはしていない不自由な場所で立ち見をしていらっしゃるお客さんもたくさんいるというような鑑賞環境のほうが、実はオール・スタンディングのライヴ・ハウスの満員時よりも、客のストレスは大きくなるんです。

たとえば、ラッシュ時の電車の中でキャリーケースのように網棚には載らない大きな荷物を床に置いているお客さんを迷惑に感じるかたは、多いと思います。そして、満員時のカフェ・ライヴにおけるテーブルの存在というのは、実はラッシュ時の電車におけるキャリーケースのようなものなんです。

そして、立ち見をしているお客さんにとっては、カフェ・ライヴでの立ち見というのは、いま述べたように「本来なら人が立ち止まることを想定して造られてはいない場所で立ち見をする」という状態になるのだから、オール・スタンディングのライヴ・ハウスでの立ち見よりも、やはりストレスが大きくなるんです。

ライヴ演奏の設備がないカフェやバーを会場にしてのライヴが、ワンマンないしはツーマンが一般的である理由は、楽屋の設備がないことに加えて、演奏中の客の出入りを最低限に抑え、客の動線の入り乱れによる会場内の混乱を回避し、お客さんにとってより良い、落ち着いた鑑賞環境を提供するためなんです。

立ち見も出ることが事前に把握できているカフェ・ライヴでは、テーブルを一時的に撤去して、可能な限り立ち見のお客さんを減らすようにするのが通常です。テーブルや椅子を撤去するのかしないのか、そのあたりの判断をつけたり、採算の目安をとるために事前予約制としているカフェ・ライヴのほうが一般的なんです(前述の『10" PICKLES SHOW』は予約制でした。その上でテーブルが撤去されていたのです。とんちさんの出演されるカフェ・ライヴは、その多くが予約制です)。

それもこれも、すべては「お客さまにより良い鑑賞環境を提供するため」です。

そして、今回のように対バン形式で、しかも予約制ではないというカフェ・ライヴの場合、開演時間に残念ながら間に合わず、後から入場せざるを得ないお客さんというのは、必ずいらっしゃいます。そうしたお客さんの存在を、運営側は当然、事前に想定できていなければいけなかったはずです。

しかし、そのようなお客さんへのサーヴィスを運営側がどこまで真剣に考慮していらっしゃったのか、正直、私には疑問でした。

なぜならば、ちゃんと考慮が為されていたのならば、そのようなお客さんは、まず間違いなく、既にテーブルに着いているお客さんの邪魔にならないよう、本来なら人が立ち止まることのない不自然な場所での立ち見を強いられてしまうだろうということも、運営側は、事前にわかっていなければならなかったはずだからです。

そのうえ、今回の場合は、ドリンクだけではなく食事のオーダーも必須でした。

ということは、どうなるか。

後から入場したお客さんは、結果として、せっかくの美味しいカフェご飯を、人が立ち止まることを前提とはしていない不自然な場所で、屋台飯のように立ち食いすることを強制させられていた、ということになるんです。きつい表現で申し訳ないですが。

そのような状況を、もしも運営側が最初から想定できていたのだとしたら。

これはちょっとひどい話だと言わざるを得ません。

なぜなら、そこには「すべてのお客さんにより良い鑑賞環境と、快適な飲食環境を提供する」という視点が、残念ながらうかがえないからです。

後から入場するお客さんにも、落ち着いた状態で食事を楽しんでもらえるようにするにはどうしたらいいか、もしも運営側がその命題をキチンと真剣に考えていたのならば、ふつうは予約制が敷かれていたはずです。

もちろん、今回の出演者のお一人である Men⇔Dy さんが本番のMC中で言及していたように、そこでライヴが行なわれることを知らなかったという一見のお客さんが、フラッと来場してくるようなタイプのカフェ・ライヴも、あるにはあります。

しかし、今回の場合はそれには当てはまりません。

なぜなら、今回の会場は貸切扱いだったから。

そこでライヴが行なわれていることを知らずに、貸切扱いの会場にフラリと入ってくるお客さんなんて、いません。

しかも、会場の Le Cafe RETRO さんは、地上階と地階の2フロアーに分かれていて、メインは地階。その上、店内の階段は、人が上り下りするたびに、かなり大きな音を立てます。

こうした店内の構造や設備の状態から言って、Men⇔Dy さんが言及していたような、一見のお客さんがフラッと入ってきて楽しむことができるようなタイプのカフェ・ライヴの開催には、これは大変申し訳ないのですが、実際問題として、Le Cafe RETRO さんは、適していません。

あくまでも Le Cafe RETRO さんを会場にして開催することが前提だったのであれば、対バン形式ではなく、ワンマンかツーマン形式の予約制にしたほうが、お客さんにはより良い鑑賞環境を提供できたはずです。



それともう一つ。

カフェやバーでのライヴの料金が、ミュージック・チャージ無しのおひねり制というのは、それ自体は非常に一般的です。

が。

今回のライヴは、おひねり制ではなく、投げ銭制でした。つまり、すべての演奏が終了した後におひねり箱が客席のあいだを回ってくるという、一般的なやり方ではありませんでした。

今回の『おととわ。Vol.1』では、「各出演者の出番が終わるごとに、出演者自らが客席のあいだを練り歩き、お客さんに直接投げ銭をお願いする」、という投げ銭制が採用されていました。

たぶん、今回のライヴの場合は、対バン形式ゆえに、お目当ての出演者の出番が終わったら帰ってしまうお客さんもいるだろうということを想定していたからこそ、出演者の入れ替えごとに投げ銭を徴収するやり方を採っていたのかな、とも思っているのですが。

しかし、率直に言って、私は、このやり方はいかがなものかと思いました。

今回の場合、客の立場から言わせていただくならば、自分の意志で観覧を希望したわけではない、どこの誰とも知れないような流しのミュージシャンから投げ銭をお願いされるのとは、わけが全然違ったんですよ。

あるいは、たまたまフラッと入ったお店でたまたま演奏していただけの、こちらから積極的な意志をもって観たわけではない、どこの誰とも知れない出演者から投げ銭をお願いされているのとも、場合がまったく違います。

今回のライヴ・イヴェントはですね、あらかじめ告知した上で集客が行なわれた、会場も貸切の、ライヴ・ハウスでの開催に限りなく近い形での運営が行なわれていた対バン形式のライヴ・イヴェントなんですよ。

そのような場で、このような徴収方法を行なうというのは、実はお客さんに対して「この出演者には金を払う価値があるのかどうか」の判断の余地を、実はほとんど与えていないやり方です。つまり、実質的には投げ銭制ではなく、おひねり制だったのです。

投げ銭とおひねりは、ほとんど同じ意味のように使われていますが、実はニュアンスが異なります。投げ銭とは、本来は大道芸人や路上生活者への施しを意味しており、つまりは通りすがりの者による「お恵み」のことです。一方、おひねりとは、ご祝儀のことを意味しています。ご祝儀である以上、本来は出演者のほうからお願いするものではないため、だからこそおひねり箱が客席のあいだに回されるという徴収方法がしばしば用いられるわけです。

今回の場合、おひねり制ではなく投げ銭制であった以上、理屈から言えば、気に入らない出演者には金を出さなくても問題はないし、それが小額であっても構わないわけです。しかし、今回のライヴに集った多くのお客さんたちにとって、今回の出演者のみなさんは、自分の自由意志で自発的に足を運んだ、積極的な意志をもって鑑賞したライヴの出演者なんです。そうした出演者から、直接投げ銭(=施し)をお願いされれば、それなりのお金を出さないわけにはいかないのが人情というものでしょう。(裏を返せば、今回のような徴収の仕方でも平気で投げ銭を出さずにいられる人というのは、相当無神経な人だと、私は思いますよ。)

今回の投げ銭の徴収の仕方は、本来ならば、客の側が積極的な意志をもって観たわけではない場合のやり方、つまりお客さんが「通りすがりの者」であった場合のやり方なのです。

ひょっとしたら運営側は、投げ銭を渋る人たちからも支持を貰えてこそ、初めてミュージシャンとしては本物である、という考え方に基づいて、出演者たちをシビアに鍛えるという意図でこういうやり方を採用していたのかもしれません。が、先にも書いたとおり、今回の場合は、流しのミュージシャンがたまたま会場に居合わせたお客さん(=通りすがりの者)に投げ銭(=施し)をお願いしていたわけではないんです。あらかじめ出演者が決められていて、事前に告知も行なわれていたライヴ・イヴェントなんです。そこに集まったお客さんは、自発的・積極的な意志をもって会場に足を運んでいたかたたちなんです。したがって、投げ銭制とはいいながらも、ほとんどのお客さんは、気に入らない出演者には金を払わなくてもいいなどとは思っていなかったはずです。最初から「自分にはお金を払う義務がある」と考えていたはずです。

つまり、あらかじめ出演者が決められていて、事前の開催告知も行なわれているライヴでの投げ銭制というのは、それにお金を払う価値があるかどうかをお客さんに決めてもらうシステムではなく、ライヴ料金の金額をお客さん自身が自分で決めるシステムとして、事実上は機能しています

つまりはそれが、おひねり制(=ご祝儀)ということです。

そして、これは言うまでもないことですが、披露宴などのパーティーにおけるご祝儀とは、お客さんにとっては事実上のチャージ(代金)となります。だからこそ、相場というものがあります。そして、本来の意味がご祝儀のことであるおひねりもまた、やはり事実上のチャージであり、だからこそこれもまた相場というものがあります。

ミュージック・チャージ無しのおひねり制、というのは、出演者も含めた運営側にとっては「演奏内容が気に入らなかったらお金を出さなくてもいいですよ」ということではなく、「金額の大小に気持ちを込めてくださいね」ということであり、つまりお客さんにとっては、実質的には「ミュージック・チャージの金額が固定されていない」という状態です。(もちろん、運営側は、この方式を採用した場合には、すべてのお客さんからミュージック・チャージを回収できるわけではないかもしれないことを想定していなければいけませんが、おひねりというのは実質的にはチャージであることも、当然踏まえていなければいけません。)

そして、今回のライヴの投げ銭制というのは、お客さんにとっては実質的にはおひねり制だったのですから、出演者の入れ替えごとに、投げ銭(=施し)という体でおひねり(=ご祝儀)の徴収が行なわれていた今回の『おととわ。Vol.1』は、ドリンクと食事の料金に加えて、出演者の入れ替えごとに事実上のミュージック・チャージが発生していたシステムの対バン・ライヴだった、ということになります。

はたしてそのことを運営側が明確に意識していたのかどうかはわかりません。

が、

あらかじめ出演者が決められていて、事前の開催告知もしっかりと行なわれているライヴの投げ銭制というのは、お客さんの側にとっては、実質上のおひねり制であり、そこに集まってきたお客さんたちは、みな、金額の大小はあれど、最初からおひねり(=ご祝儀=客の側が金額を決める事実上のチャージ)を出すつもりでいます。

したがって、今回の『おととわ。Vol.1』は、いくら自分で金額を決めることができたとはいえ、ライヴ・ハウスを会場にして行なわれる一般的な対バン形式のライヴ・イヴェントに比べると、お客さんの支払う金額の総額は、出演者の入れ替えのたびにおひねり(=客の側が金額を決める事実上のチャージ)の徴収が行なわれていたため、明らかに高額になります。

繰り返しますが、投げ銭制というものは、本来ならば、客の側が積極的な意志をもって観たわけではない場合のやり方です。

今回の徴収方法を誰が発案したのかは私にはわかりませんが、私がこれまでに体験してきた、事前告知の行なわれていた一般的なカフェ・ライヴと比較しても、今回の支払額は高額でした。(出演者に一切肩入れや感情移入をせず、出演者から直接お願いをされても投げ銭を出さない、ドライな性格のお客さんであれば、その限りではなかったかもしれませんが。)

ところが。

通常よりも結果として高くつくにもかかわらず、特に後から入場した人の場合には、先述したように、せっかくの美味しいカフェご飯なのに、それを立ち食いしなければならないなど、実際に払った金額には見合わない、およそ快適とは言いがたい飲食環境、不自由な鑑賞環境になってしまったというかたが、決して少なくはない数でいらっしゃったはずなのです。

そこが、私の最も問題視している点です。

何度も繰り返して書くのは残酷だとは思いますが、食事のオーダーが必須と定められているのに立ち食いを強いられてしまっていたお客さんのいたカフェ・ライヴ、というのは、カフェ・ライヴも「接客業」なのですから、これを「接客業」として評価した場合には、料金に見合うまともな「接客」ができていない状態だと言わざるを得ないのです。非常にきつい書き方で申し訳ありません。

一般的なカフェ・ライヴや通常の対バン・ライヴに比べて、結果としては高額になるシステムを採用していたのであれば、そのぶんお客さんには、それに見合うだけの快適な鑑賞環境と飲食環境を提供できていなければならなかったはずです。

ところが、それが充分にできていたとは、残念ながら言いがたいのです。

食事のオーダーが必須ではないカフェ・ライヴで、お腹の空いていた立ち見のお客さんが自発的にオーダーをして自分から立ち食いをしていたのとは、わけが違うのですから。

その点を、今回の運営側には、重く受け止めていただきたいのです。

主催者さんがそれまでに開催してきた数々のライヴ・イヴェントが素晴らしいものであったからこそ。

次回の開催も計画していらっしゃるのであれば、運営の仕方の改善を、真剣に考えていただきたいのです。

それが、今回このような厳しい内容をブログに掲載することにした、最も大きな理由です。

今回のような鑑賞環境、飲食環境は、このイヴェントがワンマンないしはツーマンの予約制であったなら、より快適なものになっていたはずだし、運営側がカフェ・ライヴの一般的な定石を知っていたなら、たぶんそれにしたがっていたはずだと思います。しかし、およそ快適とは言いがたい飲食環境と、不自由な鑑賞環境を、通常の対バン・ライヴよりもさらに高額な料金で、お客さんに強いてしまっていた、そのことを、運営側には、重く受け止めていただきたいのです。



繰り返しますが、演奏設備のないカフェを会場にしてライヴを企画するならば、ワンマンかツーマンが基本です。

そして、会場の構造とキャパによっては、ミュージック・チャージ有りの予約定員制のほうが、おひねり制よりも適している場合もあります。

おひねり制にするならば尚のこと、対バン形式ではなく、ワンマンかツーマンにしたほうがよいと思います。

どうしてもおひねり制の対バン形式にこだわるのであれば、最初からライヴ演奏の設備が整っている会場で、すべての演奏が終了してからおひねり箱を客のあいだに回すとか、あるいは会場の出口におひねり箱を設置しておくというやり方にしたほうがいいと思います。お目当ての出演者の出番が終わったらすぐに帰ってしまうお客さんからもおひねりを徴収したいのなら(←この発想自体が、ミュージック・チャージ無しというのが建前に過ぎないことを示しているのですが)、おひねり箱を会場の出口に設置しておいて、募金をお願いするような感じでスタッフのかたに呼びかけてもらうというやり方のほうが無難です。

繰り返しますが、おひねりとは、事実上のチャージです。「気に入らなかったら払わなくてもいい」ということではなく、「金額の大小に気持ちを込める」ということであり、つまりは「金額が固定されていないミュージック・チャージ」のことです。言ってみれば、これは建前の裏にある「お約束」に基づいて成り立っているシステムなのですから、そのことを運営側とお客さんの双方が了解していたときに、初めて円滑な運営が可能となります。

そして、出演者自身が客席のあいだを練り歩き、お客さんに直接投げ銭をお願いするというやり方は、流しのミュージシャンが一見のお客さんを相手に用いるやり方です。事前に出演者が予告されている、会場も貸切の対バン・ライヴでは、本来の意味での投げ銭制は成立しません。お客さんの側からしてみれば、これは事実上のおひねり制と違いはないからです。そして、おひねりとはご祝儀のことなのですから、出演者のほうからこれを要求してしまったら、本来はアウトなんです。出演者自らがおひねりの回収をするのは失礼に当たるからこそ、おひねり箱というものが用いられるのです。だから、今回のようにオーガナイザーが出演者自らに投げ銭の回収をさせるくらいならば、最初から固定料金制にしておいたほうが、お客さんに対しても出演者に対しても良心的です。そもそも、オーガナイザーが出演者自らに投げ銭の回収をさせるのは、投げ銭が本来は「自分よりも下位の者に施すお恵み」というニュアンスで用いられていた言葉なのですから、これは自分のイヴェントに出演してくれたミュージシャンたちに対して、「お恵みをもらってこい」と言っているのも同然で、言葉の本来のニュアンスから言えば、オーガナイザーが出演者を下位に見なしていることをお客さんにも顕示していることになってしまいます。その意味でも望ましくありません。

もしも出演者を鍛えるという意図によって、出演者自身に客席のあいだを歩かせて投げ銭をお願いさせていたというのであれば、それこそまさしく「運営側の論理」であって、お客さん本位のやり方ではないのです。

結局、運営側の「こうしたい、ああしたい」という意図ばかりが、結果として前に出てしまっている状態だったのです。

他のカフェ・ライヴのように、お客さんにとっての快適さとか都合の良さをまず第一に考えている雰囲気が、少なくとも私には、あまり感じられなかったというのが、正直なところなのです。

その代わりに、運営側が、カフェ・ライヴの運営というものを、ライヴ・ハウスでのオーガナイズと同じに考えているような雰囲気が、私にはしました。

カフェ・ライヴ運営の定石が踏襲されていなかったがために、お客さんの側にしてみれば、ライヴ・ハウスで聴くよりも音響効果が良好とは言えず、しかもライヴ・ハウスよりもむしろストレスの大きい鑑賞環境と、快適とは言えない飲食環境であるにもかかわらず、ライヴ・ハウスで観るよりも高額、という割の合わない状態が発生してしまっていたのです。

今回のライヴは、お客さんの側にとっては、事実上、出演者ごとに料金が発生するというシステムとなっていました。ということは、すべての出演者のパフォーマンスを観たお客さんほど、より多くの料金を支払うことになり、お目当ての出演者のパフォーマンスを観たらすぐに帰ってしまっているお客さんのほうが、安く済んでいるわけです。それならば、やはり最初からワンマンかツーマンで開催したほうが、お客さんにとっては良心的です。

この点から言っても、やはり結果として運営側の「こうしたい、ああしたい」という「運営側の論理」のほうが「お客さんへの配慮」に勝ってしまっている状態です。

また、Men⇔Dy さんがMCで言及していたような、通りすがりのお客さんを前提としたカフェ・ライヴにしたいのであれば、今回の会場となった Le Cafe RETRO さんの店舗構造は、お店のスタッフのみなさんには本当に失礼な物言いになってしまうのですが、あまり向いていません。お客さんの動線が、「店に入ったらたまたまライヴがやっていた、ちょっと観てみよう」というふうにはなりにくい店舗構造なのです。次回も Le Cafe RETRO さんでの開催にこだわるのであれば、店舗の構造から言っても、やはりワンマンかツーマンの予約制にするのが適当ではないか、というのが私の意見です。場合によってはテーブルを撤去して椅子のみにすることも視野に入れておくのが、カフェ・ライヴの運営としては、むしろ一般的です。

(テーブルの撤去がなかったのは、会場側の都合であるとか、せっかくのカフェ・ライヴなのだから食事を楽しんでもらいたい等の理由があったのだとは思いますが、それならばテーブルの存在をきちんと活かせるよう、やっぱり事前予約制にしたほうがよかったのではないか、というのが、あくまでも客の立場から窺い知れる範囲内での、運営側の事情を汲み取れていないことは承知の上での、私が感じた正直なところです)



服部さん主催のライヴ・イヴェントは、そもそもが服部さん自身の「この人のライヴが観てみたい、こういうライヴが観てみたい」という、個人的な願望から出発しています。ネットラジオのパーソナリティーであり作詞家でもあるたけださとしさん主催のライヴ・イヴェントも、やはりたけださんの「こういうライヴが観たい」という希望を具現化したものです。しかし、そうした運営側の「こういうライヴが観たい」という個人的な希望(これもまた「運営側の論理」の一つです)が、そのままお客さんの快楽に直結してくれるのは、あくまでも会場がライヴ・ハウスとかコンサート・ホールの場合のみなんです。

というのも、ライヴ・ハウスとかコンサート・ホールという場所は、演奏するための場所であるのと同時に、「鑑賞するための場所」でもあるからです。

つまり、ライヴ・ハウスとかコンサート・ホールは、鑑賞に適した環境作りが、既に完了している状態なんです。

ところが、カフェとかバーは、あくまでも飲食をするための場所であって、そこでライヴを開催する場合には、お客さんに気持ち良く鑑賞してもらうための環境整備の作業も、必須になってくるんです。

そして、その作業は、オーガナイザーの役割の中に含まれてくるんです。

ということは、カフェを会場にしてライヴを開催する場合には、ライヴ・ハウスやコンサート・ホールでのライヴ運営のノウハウをそのまま移植するだけでは足りないんです。

方法論がそもそも違う。

先にも述べたとおり、オーガナイザーは、客の入り具合を事前に把握し、お客さんがより快適にライヴの鑑賞ができるように、カフェ内の家具や内装を撤去したほうがいいのかどうかの判断を行ない、客の動線がスムースになるよう、配慮をしなければいけません。

出演者の演奏環境を整えるだけでは、不充分なんです。

つまり、「こういうライヴが観たい」という個人的な欲求だけでは済まされない、その店舗の構造と設備に対して客の動線はどうなるのかを考えるという、店舗経営と同様の接客発想が、カフェ・ライヴのオーガナイザーには求められてくるんです。

会場がライヴ・ハウスの場合なら、オーガナイザーが客の動線を考える必要は、それほどありません。店舗のオープンの段階で、その作業は既に済んでいるから。でも、ライヴ演奏の設備のないカフェを会場にしてライヴ・イヴェントを行なう場合には、それが通常の用途ではない以上、客の動線がどうなるのかを改めて考える必要があるんです。

そうでないと、せっかく観に来てくれたお客さんに、かえって不要なストレスを与えてしまうことになってしまうんです。

しかも今回の場合は、ドリンクと食事の両方のオーダーが必須で、全4組の出演者が入れ替わるごとに投げ銭の徴収が行なわれるというシステムだったため、立ち見を強いられたお客さんに、その不自由な鑑賞環境と飲食環境には見合わない高額な出費を強いてしまっていた可能性が、非常に高いんです。

そのことを、出演者も含めた運営側のみなさんには、重く認識していただきたいのです。

無料ライヴならともかく、対価が発生している以上、これは立派な商業行為であり、商業行為である以上は、料金を払ってくださったお客さんへの責任があるのですから。

カフェ・ライヴにおける客の動線への配慮と、対価に見合った鑑賞環境の提供の必要性を、今回よりももっと重く認識していただきたいのです。

ライヴ運営は、「接客業」なのですから。

それが、私のネガティヴな意見をブログという公の場に記した理由です。

ブログに記すべきかどうか、私が悩んでいるあいだにずいぶんと時間が経ってしまったので、ひょっとしたら時すでに遅しという状態かもしれませんが。



さて、各出演者のみなさんのパフォーマンスについてですが。

先にも述べたように、各出演者のみなさんのパフォーマンスそのものには、特に大きな不満があったわけではありません。

ただ、カフェ・ライヴという場をどう捉えているのか、カフェ・ライヴをどう定義しているのかという、その認識が、出演者ごとに全く異なっていたように、私は感じました。

たぶん、オーガナイザーが考えていたカフェ・ライヴの定義と、出演者のみなさんがそれぞれイメージしていたカフェ・ライヴ像は、一致していなかったと思います。

にもかかわらず、そのようにコンセンサスがとれていない、人によって定義の異なる、実態のない「カフェ・ライヴらしさ」という、実は曖昧なイメージでしかないものの体現を、運営側が出演者側に課していたり、あるいは運営側の抱いているイメージとのミスマッチを狙っていたりと、その「焦点の不確かさ」が、私には非常に気になりました。

カフェっぽい音楽、とか、カフェっぽい雰囲気とか、そういったものは、実は非常に曖昧な、抽象的なイメージでしかないですよね?

「カフェ・ライヴっぽさ」とか、「カフェ・ライヴに似合う音楽」とか、そういう曖昧な「っぽさ」の中身を、普遍的なものとして定義できる人は、実はいないと思います。

そうした実態のないイメージは、実はあとから付随的に発生した周辺要素でしかないのであって、それらがカフェ・ライヴという場の特性を規定しているわけではないのです。

それなのに、その曖昧なイメージをイヴェントの中心に据えてしまっていたことで、かえって全体が散漫な印象になってしまっていたように思います。

今回の出演者の中で、最もカフェ・ライヴにふさわしいと運営側が考えていたのは、アカクロのおふたりだったそうですが、私の感覚では、椎名竜仁(しいな・りゅうじん)さんと Men⇔Dy (メンディー) さんのおふたりこそが、今回の出演者の中では、最もカフェ・ライヴの似合うかたでした。

私が言う「カフェ・ライヴが似合う出演者」というのは、実は人によって定義の異なる曖昧なイメージでしかない「カフェ・ライヴらしさ」にふさわしいかどうか、ということではありません。

そもそも、お客さんにとってのカフェ・ライヴならではの楽しみというのは、

ステージと客席の物理的な距離の近さから生まれる、ライヴ・ハウスやホール級の会場にはない、独特の親密な雰囲気を、飲食という行為から生じるリラックス状態の中で楽しむ。

……というところにあると思います。

少なくとも、ふだんから好んでカフェ・ライヴに足を運んでいるオーディエンスは、そういう楽しみ方を期待しているのではないでしょうか。

だからこそ。

私にとっての「カフェ・ライヴが似合う出演者」というのは、その音楽性やパフォーマンスのカラーがどのようなものであれ、ステージと客席の物理的な距離の近さから生じる、独特の親密な雰囲気を、さらに居心地の良いものへと演出できる技量のある出演者、のことです。

椎名竜仁さんと Men⇔Dy さんのおふたりは、既にカフェやバーでのライヴの経験値を積んでいらっしゃるからこそ、このおふたりであれば、カフェ・ライヴならではの親密な雰囲気を、Le Cafe RETRO さんに生み出してくださるであろう、と私は考えていました。

そして、実際にその通りでした。

カフェとかバーでのライヴをたくさん経験していらっしゃるかたというのは、ステージと客席とのあいだのコミュニケーションの取り方が、非常に巧みなんですね。

もちろん、babooextract さんやアカクロさんのパフォーマンスにも、特に大きな不満があったというわけではないのですが、この「ステージと客席のあいだのコミュニケーションの取り方の巧みさ」と、それによって「カフェ・ライヴならではの親密な雰囲気を、より居心地の良いものへと演出する技量の高さ」という点においては、やはり椎名竜仁さんと Men⇔Dy さんのおふたりに、一日の長があったと思います。

椎名竜仁さん

Men⇔Dy さん



ライヴを企画したり、ライヴに出演したりするのって、アーティストの表現活動がどうのこうのという以前に、そもそもが「接客業」であるはずです。そうでなければいけないはずです。

椎名竜仁さんと Men⇔Dy さんは、そのあたりのことを、自覚的なのか無自覚なのかはわかりませんが、たぶん、よく理解しておられるかたたちだと思います。

カフェやバーでのライヴを多く経験していらっしゃるからこそ、椎名竜仁さんと Men⇔Dy さんは、「音楽による接客技術」が、非常に優れていらっしゃるんですね。



さて。

厳しいことばかりを長々と書き綴ってしまい、関係者のみなさんには本当に申し訳ありませんでした。このように厳しい内容を、不特定多数のかたが目にするかもしれないブログという場に載せてしまうことで、たぶん私は、今回のライヴの関係者のみなさんからは疎ましがられるだろうと思います。

が、それも仕方がないことと受け止めるつもりでいます。

長文、大変失礼いたしました。


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