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『あいたいおと』ポスター 2013年11月28日(火)から12月9日(月)まで、新宿二丁目のコミュニティーセンター akta を会場にして、写真家の服部 敦(はっとり・あつし)さんの写真展『あいたいひと』が開催されました。

 そして、その企画の一環として、期間中の12月7日(土)には、同会場にてライヴ・イヴェント『あいたいおと』も開催されました。

 出演者は、服部さんとアサカさんのお二人によるユニットの豚豚フラッグ、ピアノ連弾のアサカ&秋山のお二人、このブログではおなじみの藤井 周さん、そしてみみずくずの林レイナさんの、計4組のみなさんです。

 コミュニティーセンター akta は、アジア最大のゲイ・タウンである新宿二丁目の、公民館のような場所です。多目的スペースなので、ギャラリーとして使われるだけでなく、今回のようにライヴ・イヴェントが行なわれることも少なくありません。私がこれまでに観覧記を書いたライヴ・イヴェントのうち、2005年6月5日開催の『dEliver from 大吾y』や、2011年4月16日開催の『pray and sing for 3.11 「僕らが奏でる祈りのうた」』などが、akta を会場にして行なわれたものでした。

 akta でのライヴというのは、出演者とオーディエンスの物理的な距離が近いという点では、カフェ・ライヴに共通する部分もあるのですが、会場の性質が異なっているためか、カフェ・ライヴとはまた違った雰囲気の音楽空間が楽しめます。

『dEliver from 大吾y』観覧記 (Queer Music Experience.)

pray and sing for 3.11 「僕らが奏でる祈りのうた」観覧記 (当ブログの2011年5月5日付のエントリ)

 そして、「展覧会の一環として行なわれたライヴ・パフォーマンス」という部分に着目するならば、私がこれまでに観覧記を書いたものとしては、2000年から2011年まで毎年夏に開催されていた、セクシュアル・マイノリティによるアートの祭典、Rainbow Arts において、ゲイ・ミュージシャンの Yosuke さんが、2010年度の最終日(7月31日)と2011年度の最終日(7月30日)に、それぞれライヴ・パフォーマンスを行なわれた例があります。このうち、2010年度のライヴ・パフォーマンスの観覧記を、私はこのブログに書いています。

Yosuke in Rainbow Arts 2010 (当ブログの2010年8月12日付のエントリ)

 この Rainbow Arts における Yosuke さんの試みというのは、2010年8月12日付のエントリの中でも述べているように、「音楽を『展示』する」というものでした。そして、そこで行なわれたパフォーマンスも、その試みの延長線上にある、いわば「展示作品と同列」のものであり、「展示の一部」として行なわれたものでした。

 では、今回の『あいたいおと』の場合はどうだったのか、というと。

「展示作品と同列」とか「展示の一部」であるというよりは、「写真展『あいたいひと』の姉妹編」という印象を、私は受けました。

 つまり、服部 敦という一人のクリエイターが、同じ一つのテーマを、写真という手法を用いて表現したものが、写真展『あいたいひと』であり、ライヴ・イヴェントのオーガナイズという手法を用いて表現したものが、ライヴ・イヴェント『あいたいおと』である、という。

 では、その「同じ一つのテーマ」とは何だったのか。

 それはもう、『あいたいひと』『あいたいおと』というタイトルが示しているとおり、「被写体となった人々に対する、服部 敦からの思い入れ」であったと思います。

 で、ですね。

 ここから先に私が書いていく内容は、あくまでも私個人の解釈であり、私個人の印象なのであって、絶対的な一つの評価ではない、ということは、どうか予めご承知おきください。


 写真という表現、特にポートレイトは、被写体となった人物に対する、撮影者の側からの思い入れが、如実に表れ出ます。

 そのことは、私自身、ライヴ・イヴェントの撮影を自分で行なうようになったことで、つくづく実感しています。

 ただ、ここでこのエントリをお読みのみなさんに注意を促しておきたいのは、

 そうしたポートレイトの上に表出されているものとは、あくまでも「被写体に対する撮影者の側からの思い入れ」であって、「被写体の側からの思い入れ」ではない、ということなんです。

 被写体となっている人物が、撮影者には何らの思い入れをもっていなくとも、撮影者の側が被写体の人物に強い思い入れを抱いていれば、被写体の活き活きとした表情を、印画紙の上に焼き付けることは可能だからです。

 ポートレイトの主体は、実は被写体の側にあるのではなく、あくまでも撮影者の側にあります。

 仮に、被写体となった人物が、撮影者に全幅の信頼を寄せていて、他の人には滅多に見せないような打ち解けた表情を見せる関係性が、既に撮影者とのあいだに築かれていたのだとしても、そのような関係性が被写体の人物の表情や仕草の上に表れる瞬間を、はたしてどのように捕らえているのかというところに、「撮影者の側からの思い入れ」が反映されます。

 これというのは、心理カウンセラーを相手に嘘を吐いたり隠し事をしたりしても、どのような嘘を吐いているかとかどうやって話を逸らしているかというところに、結局その人の心理状態が表れてしまうのと、ある意味では似ています。

 どういった人物の、どういう表情を、どのように捕らえているか。そこに表れるのは、被写体ではなく撮影者の側の主体と個性です。

 つまり、写真展『あいたいひと』が表出していたのは、あくまでも「被写体となった人々に対する、服部 敦の側からの思い入れ」であって、たとえ被写体となっている人々と撮影者である服部さんとのあいだに、友情とか愛情とか、相互の信頼関係が存在していても、印画紙の上に焼き付けられているのは、被写体となった人々との相互の信頼関係ではない、ということ。

 だから、私が写真展『あいたいひと』を観て思ったのは、「ああ、服部 敦という撮影者は、こんなにもたくさんの人たちから愛されているのだなあ」ということではないんです。

 その逆です。

「ああ、服部 敦には、こんなにもたくさんの『あいたいひと』がいるのだなあ」と。

 その博愛ぶりに、私はホッコリとしたわけです。

 ポートレイト写真という表現は、「被写体から撮影者への思い入れ」を写し出すものではなく、あくまでも「撮影者の側からの思い入れ」を写し出すものなので、それは「一方通行」のものです。

「一方通行」だからこそ、そこには排他性がない。

 つまり、あらゆる人々に対して開かれている表現なんです。

 服部 敦という人物を全く知らない人にも開かれていて、そうした人たちをも感動させる力があった。

 だから、写真展『あいたいひと』は美しかった。

「一方通行」だったから美しかった。

 これがもしも「相思相愛」だったら、閉じてしまうんですよ、その関係性は。

 恋人ができたとたん、友だち付き合いの悪くなる人って、いるでしょ? それと同じ。

 第三者の入る余地がなくなってしまうし、本人たちにはそのつもりがなくとも、その関係は、排他性を帯びてしまう。

 写真展『あいたいひと』は、それが服部 敦から大勢の被写体の人々へと贈られた「一方通行」の愛だったから――つまり、その愛の表現が万人に向けて開かれていたものだったから――私は、それを素晴らしいな、と思ったんです。



 ところが。



 ライヴ・イヴェント『あいたいおと』は、ものすごく閉じた空間であるように、私には感じられてしまいました。

 このライヴは、服部さんの写真展の一環としての開催なのだから、その主体は、オーガナイザーである服部 敦さんにあります。『あいたいおと』というタイトルも、「服部 敦はこういうミュージシャンの音に『あいたい』と思っている」ということなのだから、主役は服部さんです。たぶん服部さん自身も、それから出演者のみなさんも、「主役は服部 敦」とお考えになっていたからこそ、「当然このライヴに集まってくるのは服部さんの知人がほとんどであろう」という前提に立っていらっしゃったのではないか、と私は感じました。

 そして、もしもそうであるならば、その読みは結果的には間違っていなかっただろうとも思います。

 が。

 もしもその前提が、

「服部 敦の知人が大勢来るだろう」、ではなく、

「服部 敦の知人しか来ないだろう」、というものであったとしたならば。

 それは、このライヴが既に最初の時点から「閉じた空間」として存在していた、ということになります。

「服部 敦の知人が大勢来るだろう」という前提と、「服部 敦の知人しか来ないだろう」という前提は、同じようでいて全然違います。

「服部 敦の知人が大勢来るだろう」という前提の場合は、「服部 敦のことを全く知らない人だって来るかもしれない」という可能性が含まれます。

 その可能性に、どの程度まで配慮ができているのかどうかによって、そのライヴの開き具合と閉じ具合は変化します。

 では、「服部 敦のことを全く知らない人だって来るかもしれない」という可能性を、今回の出演者のみなさんは、いったいどの程度、考慮していらっしゃったのか。

 正直、私には疑問でした。

 出演者のみなさんのMCによると、今回のライヴでは、オーガナイザーである服部さんから、その曲目について、かなり細かいリクエストが出されていたようです。林レイナさんについては、単に曲がリクエストされていただけではなくて、曲順までもが指定されていたようです。

 原則から言えば、オーガナイザーが出演者のセットリストにまで注文を出すのは、実はNGです。なぜなら、セットリストも、そのアーティストの表現の一部だから。そこまで細かく注文を出してしまうと、そのオーガナイザーは、次からはオファーを受けてもらえなくなります。そういう例を、いくつも私は知っています。

 まあ、裏を返せば、そうしたワガママをも聞いてくれるような親密な間柄にある出演者に、今回の服部さんはオファーをかけていた、ということなんでしょうし、オーディエンスの側の論理で言えば、そうしたオーガナイザーのワガママというのは、あくまでも舞台裏での話なのだから、結果として良いライヴが観られればそれで充分だとも言えるので、オーガナイザーの服部さんがセットリストの内容にまで細かい注文を出していたということは、その事実がオーディエンスに知らされない限りにおいては、まあOKなのかもしれません。大好きなミュージシャンに自分の大好きな曲を歌ってもらいたいという気持ちも、理解できますし。

 ただ、好きな人へのワガママというのは、結局は「愛の見返りの要求」に他なりません。

 いくらそのアーティストのことを愛しているからといって、そのセットリストの内容にまで注文をつけるというのは、実は愛情表現ではなくて、「見返りの要求」です。

 先に書いた「一方通行」の愛が美しいのは、それが見返りを求めるものではないからです。

 写真展『あいたいひと』は、それが「一方通行」であるからこそ、そこで示されていた愛は、被写体に見返りを求めるものではなかった。だから美しかった。

 ところが、ライヴ・イヴェント『あいたいおと』は、出演者のみなさんが、そのMCの中で、オーガナイザーの服部さんが「愛の見返り」を出演者に要求していたことを、図らずしも明かしてしまっていたんです。

 そして、そのような暴露話的なMCが、笑い話として機能してくれるのは、

 服部 敦という人物のことを、既によく知っている人間に対してだけです。

 だから、ライヴ・イヴェント『あいたいおと』は、閉じていた。

 それがはたして無意識なのか意識的なのかはわかりませんが、そのような暴露話的MCが笑い話として機能し、しかも幾度となくそれが飛び出してきたということは、

 今回の出演者のみなさんは、「今ここに集まっているオーディエンスは、全員が全員、服部 敦の知り合いである」という前提のもとに、パフォーマンスを行なっていた、ということになるんです。

 だから、ライヴ・イヴェント『あいたいおと』は、閉じていた。

 写真展『あいたいひと』は、万人に向かって開かれていた表現だったのに、その一環として開催されたはずのライヴ・イヴェント『あいたいおと』は、閉じていた。

 服部 敦さんの友人・知人に対してしか、開かれていなかった。

 当日の会場には、男性のお客さんも女性のお客さんもいらっしゃっていたし、ゲイのお客さんもストレートのお客さんもいらっしゃった。若い人も、年配のかたもいらっしゃった。その意味では、あらゆる属性のかたたちに向けて開かれたライヴ・イヴェントではあったと思います。

 しかし、それは服部さんの交友関係が、そうした属性の違いには全く左右されておらず、非常に開かれたお付き合いをなさっているかたなのだということを示しているに過ぎません。

 出演者のみなさんのMCやパフォーマンスの行間に表れていた、「ここで想定される客層」は、「ゲイもノンケも、男も女も関係なく交友している服部 敦の、その友人・知人」という形で、結果的には著しく限定されていました。

 だから、ライヴ・イヴェント『あいたいおと』は、閉じていた。

 ……まあ、実際問題として、『あいたいおと』のオーディエンスは、その多くが服部さんの友人・知人だったのであろうことは、確かだとは思います。

 でもね、

 ひょっとしたら、そうではないお客さんだって、いらっしゃったかもしれない。

 たとえば、服部さんとは全く面識がないんだけれども、林レイナさんのパフォーマンスを間近で観ることができる機会だからと、わざわざ足を運んでくれたお客さんだって、ひょっとしたら、いたかもしれない。

 あるいは、服部さんとは全く面識がなく、服部さんについての予備知識もそれほどにはないお客さんが、服部さんの友人に連れられて、会場にいらっしゃっていたかもしれない。

 そのようなお客さんたちが、今回の出演者のみなさんが服部さんについて語るMCを聞いたときに、いったいどういう印象を、服部さんに対して抱くであろうか。

 そのことを、今回の出演者のみなさんは、いったいどの程度まで想定していらっしゃったのでしょうか。



 ピアノ連弾のアサカ&秋山のアサカさんは、服部さんから「ジブリの音楽」というリクエストがあったと前置きした上で、『魔女の宅急便』のサントラからの曲のメドレーを演奏なさいました。

 そしてその演奏が終わったあと、アサカさんは、

「私は『魔女の宅急便』を観たことがない」

 とおっしゃいました。

 その一言は、アサカさんにとっては、何気ない一言だったのだとは思います。

 オーディエンスを笑わせるための、サービス精神から発せられたであろう、何気ない一言。

 しかし。

 その何気ない一言は、「私がこの曲を演奏したのは、あくまでも服部さんからのリクエストに従ったまでであって、私自身は、この曲には何ら思い入れはありません」と、オーディエンスに向かって明言したのと同じことです。

 サポート・ピアニストとして演奏しているのならともかく、パフォーマンスの主体として演奏しているアーティストが、「楽曲に対する思い入れの不在」を言葉で示してしまうのは、服部さんの存在を含めて考慮しても、かなりNGな行為です。なぜなら、その一言は、その演奏に感動したかもしれないオーディエンスを、いきなり突き放すようなものだから。

 失礼でしょ? そういうのは。

 そして、そのようにして「楽曲に対する思い入れの不在」がアーティスト自身によって示されたということは、それは言葉を変えれば、「普段の私なら、このようなセットリストは組みませんよ」と言っているも同然で、それによって浮かび上がるのは、「セットリストの内容にまで細かく注文を出す、オーガナイザーのワガママ」です。

 その「オーガナイザーのワガママ」の所在を暴露するMCが、しかし笑い話として機能してくれるのは、

 残念ながら、服部さんの友人・知人に対してだけです。

 服部さんの友人・知人ではないお客さんにとっては、このアサカさんの一言は、「服部 敦というオーガナイザーは、愛の見返りの要求として、演者には思い入れのない曲を演奏させるのだ」というマイナスの先入観を、植え付けかねません。



 林レイナさんのMCは、さらに直球でした。

 服部さんからのリクエストを「無茶振り」と評し、「『僕のことを歌った曲を歌ってください』と言われた」とか、「セットリストの内容にここまで注文をされたのは初めて」とか。

 もちろん、こうしたレイナさんのMCは、「落とすことによって上げる」という、関西流の愛情表現であることは、充分にわかるんです。

 ただ。

 レイナさん自身がおっしゃっているように、そして私が先にも述べたように、オーガナイザーがセットリストの内容にまで細かく注文を出すというのは、本来はNGなんですよ。リクエストを出すだけならともかく。

 そのようなNG行為をもOKにしてしまうほど、レイナさんと服部さんは親密である、ということが、レイナさんのMCを通じて示されていたとは思います。

 が、

 服部さんの友人・知人ではないお客さんがこれを観た場合には、「服部 敦というオーガナイザーは、演者の表現の一部であるセットリストの内容にまで口を出す人なのだ」というマイナスの先入観が、植え付けられてしまうかもしれない。

 仮にですよ、もしも服部さんとは知り合いではないミュージシャンのかたが、今回のライヴ・イヴェントを観ていたならば、おそらくその人は、「ああ、服部 敦というオーガナイザーは、ここまで出演者のセットリストに注文を出す人なのかあ、だったら、もしも自分のところにオファーが来ても、引き受けるのはちょっと面倒かもしれないなあ」なんて思ってしまうかもしれない。

 そういう可能性を、アサカさんやレイナさんは、はたして考えていらっしゃったのでしょうか。

「平気、平気、ハットリアツシはこの程度の『落とし』で凹むようなヤツじゃないから。みんなもそのことは知ってるよね?」というノリだったのかもしれませんが、でも、そんなことは、それこそ服部さんの友人・知人のかたにしかわからない情報じゃないですか。

 おそらくは、アサカさんもレイナさんも、意識的か無意識なのかはわかりませんが、「ここに集まっているのは、全員が全員、服部 敦の知人である」という前提に立っていらっしゃっていた。

 そのように、私は感じました。



 オーディエンスに向けての裏話の披露というのは、確かに演者とオーディエンスの距離を縮めるものではあるんです。

 ただ、そこでネタにされている服部さんが、司会者としてすぐそばにいる以上、そんな服部さんをネタにした裏話は、「内輪ネタ」になってしまう。

 つまり、閉じてしまうんです。

 今回のライヴMCの中で、レイナさんは、レイナさんのお父さまをネタにした裏話も披露されましたが、その場合には、その裏話は、全てのオーディエンスに対して開かれたものになります。なぜかというと、レイナさんのお父さまはその場には不在でいらっしゃるし、そこに集まっているお客さんの全員が、レイナさんのお父さまについて知っていらっしゃるわけではないということが大前提となるので、お父さまについての裏話というのは、実は「内輪」の外にいらっしゃる人についての話になるんです。つまり、「内輪ネタ」ではない。だから、結果として全てのオーディエンスに向けて開かれたものになる。

 ところが、司会者としてその場にいる服部さんのことをネタにしてしまったとき、それは「内輪ネタ」になってしまうんです。

「内輪ネタ」は、閉じています。

 出演者のみなさんによる、「そこにいる服部 敦からの無茶振りに応える、健気な私たち」のアピールは、要するに「内輪ネタ」です。

 そうした「内輪ネタ」が、服部さんへの文句とか批判ではなく、服部さんへの愛情表現であることを理解できるのは、服部さんと出演者のみなさんがそれほどまでに親密であることを既に充分理解している人たち、つまり「内輪」の中にいる、服部さんの友人・知人のみなさんに対してだけです。

 ということは、「内輪」の外にいる、服部さんとは面識がないオーディエンスの存在は、前提とされてはいなかった。

 だから、『あいたいおと』というライヴ・イヴェントは、閉じていた。

 私は先に、アサカさんのMCがかなりNGだと書きましたが、それがOKになってしまっていたのは、このライヴ・イヴェントが、「内輪」のものとして閉じていたからです。オーディエンスも「内輪」の中にいるから、本来なら失礼にあたるようなMCも、笑い話として許されてしまう。

 たぶん、今回のオーディエンスのみなさんのうち、日頃から服部さんと親しくなさっているかたたちについては、今回の『あいたいおと』は、まるでホーム・パーティー感覚の、非常に楽しいライヴ・イヴェントだったと思います。

 しかし。

 親しい人たちばかりが集まったホーム・パーティーは、閉じた空間です。

 そこに集った人々の相思相愛ぶりがアピールされればされるほど、その空間は第三者を排除し、閉じていくものなんです。

 写真展『あいたいひと』が美しかったのは、そこで表されているものが「こんなにもたくさんのひとから愛されている幸せな僕、服部 敦」のアピールではなく、「僕の『あいたいひと』たちは、こういう素敵な笑顔をしています」という、「双方向」ではなく「一方通行」のものだったからです。

 少なくとも、私にとっての『あいたいひと』の美しさの性質とは、そういうものです。

 ところが、『あいたいおと』はそうではなかった。

 服部さんの友人・知人ではない人たちが今回のライヴを観ていたとして、そのような人たちの目に、『あいたいおと』というライヴ・イヴェントは、いったいどのように映ったでしょうか。

 ――そして、今回のライヴを一歩引いたところから観ていた私の目には、『あいたいおと』というライヴ・イヴェントは、非常に申し訳ないのですが、

「オーガナイザー自らが、出演者からのトリビュートの対象になろうとしている、トリビュート・ライヴ」

 と、映りました。



 ……まあ、出演者のみなさんも、それからオーガナイザーの服部さんも、最初から「閉じた空間」づくりを目標にしていたのであれば、別に私ごときがどうこう言う筋合いでもないのでしょう。

 完全に商業ベースで開催されているメジャーのライヴ・イヴェントの中にも、コアな客層をターゲットにした、マニアが対象の「閉じた空間」というのは、いくらでもあります。

 しかし、今回の『あいたいおと』が、そのように最初から「内輪」のイヴェントとして企画されていたのであれば(たとえば、人生の節目を迎えた服部さんを、ご友人のみなさんでお祝いするために開催された「服部 敦を囲む会」というイヴェントであるならば)、事前告知の際には、そのような趣旨であることも併せて明示しておくとか、最初から招待制にしておくとか、もうちょっと客層を絞り込む努力をすべきでしょう。

 そうではなくて、たまたまネットで情報を拾っただけのような第三者でもウェルカムであったのであれば、出演者のみなさんがまず考えなければいけなかったのは、いかにしてそのような第三者を歓待するか、という部分でしょう?

 だって、既に相思相愛の間柄にある人をもてなすよりも、面識のない第三者をもてなすことのほうが、はるかに気を遣うのだし、扱いも難しいのですから。

 そこにいるかもしれない未知の第三者の存在、つまり「初めまして」のお客さまへの配慮がなされていないということは、そこにいるかもしれないマイノリティの存在が視界に入っていない、ということです。

 さらにもっと突っ込んで書いてしまうと、この「『初めまして』のお客さまの存在が視界に入っていない」というパフォーマンスが行なわれていたのは、今回の『あいたいおと』だけに限らず、これまでに服部さんがオーガナイズしてきた多くのライヴ・イヴェント(もちろん、私が実際に足を運んだものに限られますが)でも、頻繁に見受けられました。

 服部さんオーガナイズのライヴ・イヴェントは、服部さんが愛して止まないミュージシャンや、あるいは服部さんと既に交流のあるミュージシャンが、その出演者の中心です。ということは、ある一定の出演者にとっては、服部さんオーガナイズのライヴ・イヴェントというのは、「オーガナイザーも共演者も、そして集まってくるオーディエンスも、そのほとんどが顔見知りの友人である」という状態になります。

 その安心感が、「内輪」ノリを生み出します。

 しかし、それがワンマン・ライヴであるならばともかく、対バン・ライヴである以上は、そこに集まってくるオーディエンスの中には、顔見知りではない、「初めまして」のお客さまだって、当然いるわけですよ。そこにいるオーディエンスの全てが、そのミュージシャンを目当てに集まってきているわけではない。共演のミュージシャンのステージが観たくて足を運んできたお客さまだって、当然いらっしゃるはずです。

 にもかかわらず、まるでそこに集まっているオーディエンスの全てが、自分や服部さんの顔見知りであるかのように錯覚して、最初から最後まで「内輪」ノリのままだった出演者も、少なくない数でいました。

 しかし、対バン・ライヴの出演者が大切にしなければいけないのは、「自分のステージを観に来ているわけではない、『初めまして』のお客さまにも、自分の歌と音楽を好きになってもらえるようなパフォーマンスをする」ということでしょう?

 対バン・ライヴで「内輪」ノリのステージを繰り広げるということは、「『初めまして』のお客さまにも、自分の歌と音楽を好きになってもらえるようにする」ための努力を、放棄していることに他なりません

 もしも、その「初めまして」のお客さまの中に、他のライヴ・イヴェントのオーガナイザーや、あるいはレコード・レーベルの関係者のかたがいらっしゃっていたとしたら、最初から最後まで「内輪」に向けてパフォーマンスしていた出演者は、そうしたかたたちにも楽しんでもらえるパフォーマンスをしていなかったということになるのだから、服部さんのライヴ・イヴェントへの出演を機に出会いがもたらされたのかもしれなかった、せっかくの新しいチャンスを、自らの手で握りつぶしたことになるわけです。

 これは、服部さんのオーガナイズに問題があったのではないです。

 完全に、出演者の側の問題です。

 せっかく服部さんが新たな機会を与えてくださっているというのに、その服部さんや共演者のかたたちとなまじ顔見知りであったばっかりに、その安心感からついつい「内輪」ノリに走ってしまって、「初めまして」のお客さまを、結果としてないがしろにしていた出演者の、何と数多かったことか。

 服部さんオーガナイズのイヴェントに出演してきたミュージシャンのかたたちの中には、正直、服部さんからの好意に甘え過ぎている人が多かった。私はそう思う。

 その意味では、確かに服部さんには、出演者に「愛の見返りの要求」をする資格があるかもしれない。

 でも、それもまたやはり、「初めまして」のお客さまには関係のないことです。

 対バン・ライヴというのは、たとえ「想定される主な客層」というものが存在していたとしても、原則的には、「誰が来るのかわからない」、「誰が来ても不思議ではない」という空間なんです

 私がこれまでにこのブログで頻繁に取り上げてきた、sola さんや屋良朝友さん、とんちピクルスさんは、どんなライヴの場合であっても――それこそワンマン・ライヴの場合であっても――あるいは、常連客ばかりが会場を埋め尽くしていても――「初めまして」の挨拶を、欠かさないかたたちです。この御三方は、常に「そこには『初めまして』のお客さまがいる」という前提で、パフォーマンスをなさいます。

 つい先日に観覧記を書かせていただいたマダム・ピロガネーゼさんも、自己紹介を常に欠かしません。「初めまして」のお客さまを、絶対にないがしろにはしないかたです。

 また、私がこれまでに服部さんオーガナイズのライヴ・イヴェントについて書いてきた中で大きく取り上げてきた、藤井 周さんや藤本大祐さんは、はたしてこのお二人がどこまで「初めまして」のお客さまの存在を明確に意識していらっしゃるのかはわかりませんが、でも「初めまして」のお客さまを置いてきぼりにするようなパフォーマンスは、このお二人はなさらなかった。

 だから、私はこのお二人のパフォーマンスに初めて接したとき、非常に好印象を持ったし、このブログで紹介もさせていただいた。

 ――ということは、裏を返せば、私がこれまで実際にライヴを幾度も拝見しているにもかかわらず、しかしこのブログでも Queer Music Experience.本編でも、某 SNS の日記でも、一度も触れたことがないLGBTのインディー・ミュージシャンというのは、最初から最後まで「内輪」ノリに終始して、「初めまして」のお客さまの存在をないがしろにしているミュージシャンだ、ということです。

 そうしたミュージシャンは、結局、「友人・知人のみを対象にライヴ活動をしている」ということなのだから、そのミュージシャンの宣伝をすることによって、これ以上ないがしろにされてしまう人の数を増やす手伝いを、私はしたくないんです。



 話が邪悪な方向に逸れました。すいません。



 今回のライヴは入場無料だったので、別に「金返せ」ということが言いたくてこのエントリを書いているわけではないですよ。

 そうではなくて、写真展『あいたいひと』はあんなにも万人に向けて開かれていた、愛情に満ち溢れた素敵なイヴェントだったのに、どうして『あいたいおと』は、こんなにも閉じてしまっていたのか、それが惜しまれて仕方がないんです。



 たぶん、出演者のみなさんは、服部 敦さんとの相思相愛ぶりを、そのMCの中でアピールする必要はなかった。私は、そう思います。

 それよりも、「ミュージシャンとして服部 敦からこんなにも愛されている私は、こういう歌を歌っているんですよ」とか、「こういう演奏をしているんですよ」という、「服部 敦からミュージシャンとして愛されている私」の姿を、そのパフォーマンスを通じて、服部さんの友人・知人のみなさんにだけでなく、あらゆる種類のオーディエンスに向けて、示す。

 ただそれだけで、充分だったのではないでしょうか。

 それこそが、万人に向けて開かれた、服部敦さんへの愛情表現だったのではないでしょうか。



 そして、そのような形での愛情表現にいちばん近いパフォーマンスをなさっていたのは、たぶん、藤井 周(ふじい・あまね)さんです。

 その理由というのは、服部さんから周さんへの注文の内容が、アサカ&秋山さんや林レイナさんに比べると、「無茶振り」の度合いが低いものであった、という要因も、かなり決定的に働いていたのだろうとは思います。

 が。

 今回の『あいたいおと』での周さんのMCは、服部さんをあれこれとネタにすることによって「ビバ、服部 敦!」という結論に持っていこうとするものでは、そもそもなかったと、私はそのように感じました。

 藤井 周さんが、今回の『あいたいおと』でのパフォーマンスを通じて表現したかったのは、たぶん、「ビバ、服部 敦!」ではなかった。

 きっと藤井 周さんは、服部さんを讃えたり、ヨイショしたりするよりも、

「僕のことを『あいたいひと』だと言ってくれてありがとう、僕の歌を『好きだ』と言ってくれてありがとう、このイヴェントへの出演をオファーしてくれてありがとう」

 という、服部さんへの感謝の気持ちを、歌と演奏に込めていた。

 そのように、私には感じられました。

『あいたいおと』での藤井 周さんは、「服部 敦を讃える」ために歌っていたのではなく、「服部 敦に感謝の気持ちを伝える」ために歌っていた。

 そういう印象を、私は受けました。

 服部さんが「好き」だと言ってくれた歌を、心を込めて歌う。それこそが、服部さんへのいちばんの感謝の印になる。そのことを周さんは、はたしてどこまで意識していたのか、それとも無意識なのかはわかりませんが、きっと、理解していた。

 一歩引いたところから今回のライヴを観ていた私がそう感じたのだから、服部さんとは知り合いではいらっしゃらなかったお客さんが仮にいたとして、そのようなお客さんも、きっと私と同じように感じていたはずだと、私は思います。

 ――もちろん、これらは全て私個人の印象です。本当は全然間違っているかもしれない。

 でも、私は藤井 周さんの歌と演奏を聴いて、そう感じたんです。

 そのことは事実です。

藤井 周


 そして。

 歌うことそのものが愛情表現となっているという意味で、イヴェントのオープニングでの、服部さんとアサカさんのお二人のユニット、豚豚フラッグによる、林レイナさんの「愛しい人」のパフォーマンスにも、実は感動していたんです、私は。

 歌を歌うという行為を通じての愛情表現は、それが見返りを求めない一方通行のものであるからこそ、美しい。

 服部さんの熱唱する姿は、美しかったんですよ。私の目には。

 だからこそ、服部さんは今回の出演者のみなさんに「愛の見返り」を求めてはいけなかった。

 その必要はなかったんです。

豚豚フラッグ

服部 敦


 今回の出演者のみなさんは、『あいたいおと』と題されたイヴェントへの出演をオファーされたという時点で、服部さんからの愛を、既に充分、受け取っていたはずだと思います。

 仮に、もしも私が出演者の立場にあったなら、このイヴェントへの出演をオファーされただけで、私は服部さんからの愛を充分に感じることができます。

 そして、「服部 敦を讃える」のではなく、「服部 敦から愛されているミュージシャン」としての姿を、その歌とパフォーマンスによって示す。ただそれだけで、出演者のみなさんから服部さんへと贈られた愛の所在は、服部さんのことを知らないオーディエンスのかたにも、充分に伝わっていたはずです。

「愛の見返りの要求」は、必要なかった。



 それでは最後に。

 私が『あいたいおと』について長々と書いてきたこのエントリも、結局のところは、服部 敦さんと出演者のみなさんに対して「こうあってほしかった」という私個人のワガママ、

 とどのつまりは、

「愛の見返りの要求」です。

 だから、このエントリは、全然美しくない。

 にもかかわらず、こんな、長いばかりで美のカケラもないエントリに、最後までお付き合いくださったみなさまの、その見返りを求めない愛の美しさに、私は心から感謝いたします。

 どうもありがとうございました。


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