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 2014年4月27日(日)は、渋谷で行なわれた『東京レインボープライド2014 パレード&フェスタ』に、私も足を運んでまいりました。

 とはいえ、当日の私は、実際にパレードを歩いたわけではなく、またステージの内容をじっくりと拝見したのも、実は午前の部だけだったりするのですが。

 寝不足と、それから人混みが辛かったのとで、午前の部が終了してからは、パレード参加受付をすることもなく、日影のベンチに座って、グッタリとしていました。

 そして午後からは、数年ぶりに再会した、私と最もウマの合う友人と2人で、パレードの出発や帰着の様子を眺めながら、今回の参加者層が見た目にはどのようなものであったのかを分析したり、各フロートの人数分布をチェックしたり(2人とも分析癖のある人間なので)、また、時には莫迦話を差し挟みつつ、イヴェント全体を俯瞰しながら、互いの意見を交わし合い、ディスカッションをして時間を過ごしました。

 そのようなわけで、今回の私は、会場に足を運んではいたものの、参加者というよりは、むしろ傍観者の立場にいました。

 そんな私が、今回のプライド・パレードについて何かを語ったところで、それは運営側の事情・心情というものを斟酌できていない、一方的なものだろうとは思います。

 ですが、傍観者の目から見た一つの意見として、ここでは私個人の感想、というか印象を、述べてみたいと思います。



 先ず、私が初めて実際にプライド・パレードを体験した、00年代前半のころと比べると、性の多様性の可視化の実現が、本当に進んでいると実感しました。

 たとえば、00年代前半の日本のプライド・パレードでは、トランスジェンダーのかたたちの参加は、今ほど数は多くなかったです。

 そういう以前に、女性のかたの参加自体も、まだまだ少なかった。

 それから、会場で見かける外国人のかたの姿も増えたし、お子さんのいらっしゃるLGBTのステップファミリーのかたの可視化も、これは本当に著しく進んでいます。

 こういった、セクシュアル・マイノリティという大きな枠組の中での、それぞれの性の領域の可視化が進んでいるのに加えて、一般企業からの協賛や広告の増加、欧米の大使館からの後援など、既存の社会に対してのセクシュアル・マイノリティ総体としての可視化も、非常に進んでいます。

 これらのことは、00年代前半のころの日本のプライド・パレードでは、実現されていなかったことです。

 その意味では、現在の東京レインボープライドは、00年代前半のころの東京レズビアン&ゲイパレードに比べて、確実に進歩しているし、これからも基本的には今のままの方向性で、進歩と成長を続けていってほしいと、本気で願っています。

 ただ、ですね。

 だからといって、00年代前半のころの日本のプライド・パレードが、女性やトランスジェンダーのかたたちの存在を排除していた、というわけでは、全然ありませんからね。念のため。

 当時の日本のプライド・パレードの運営側も、女性やトランスジェンダーのかたたちに、もっともっと表に出てきてほしいと願っていたし、それを実現するための努力を怠っていたわけでもありませんでした。

 そもそも、セクシュアル・マイノリティと一口にいっても、それは決して一枚岩ではないのだから、無条件で連帯ができるわけではないんですよね。

 これというのは、たとえば1994年に行なわれた、日本で初めてのプライド・パレード『東京レズビアン・ゲイ・パレード』の参加者が、300人だった(今年の東京レインボープライド2014の公式ガイドに掲載されていた、当時の主宰を務められた南定四郎さんの談による)というのと、たぶん同じことです。

 要するに、たとえ同じセクシュアル・マイノリティ同士であっても、プライド・パレードの開催・参加への理解というのは、徐々にしか拡がっていかない、ということです。

 ということは、つまり。

 参加者が少なかった時代のプライド・パレードの運営側のかたたちほど、まだ姿を見せていない、同じセクシュアル・マイノリティの人々に対して、「もっと参加してほしい、もっと表に出てきてほしい」という気持ちを、より強く、より切実に抱いていたはずなのです。

 私が実際に体験した、00年代前半のころの日本のプライド・パレードの運営側も、それはやはり同じでした。

 既に参加者が増えていたゲイやバイの男性だけではなく、当時はまだまだ参加が少なかった、女性やトランスジェンダーのみなさんの参加を、当時の運営側は、強く強く望んでいました。そのことは事実であると、私は断言できます。というのも、当時の日本のプライド・パレードの運営の中枢にいらっしゃったかたたちの何人かを、私は個人的に存じ上げているので。

 つまり、00年代前半のころの日本のプライド・パレードは、確かに2014年の現時点に比べると、女性やトランスジェンダーのかたたちの参加が少なかったけれども、それは当時の日本のプライド・パレードが、女性やトランスジェンダーのかたたちの存在を視野に入れていなかったというわけではないんです。

 むしろ、その逆です。

 そして。

 00年代前半当時の日本のプライド・パレードの運営側は、異性愛社会に向けたメッセージだけではなく、ご自分がセクシュアル・マイノリティであることを受け入れられずにいらっしゃるかたたち、つまりクロゼットのかたたちに向けて、前向きなメッセージを発信することも、強く意識されていました。

 そのメッセージを受けて、クロゼットから外に出てきて、ゲイ・コミュニティに足を運び入れるようになった、その一人が、何を隠そう隠しませんが、この私です。



 というわけで。

 いささか回り道にはなりますが、この私が、どのようにしてクロゼットから外に出てきたのかを、ここで語らせてください。

 私個人について興味のないかたにはつまらない話だということは重々存じておりますが、どうかお付き合いをお願いいたします。







 1990年代後半、私は既に、『小説 JUNE』や『さぶ』といった雑誌に、ゲイ小説を発表していました。

 にもかかわらず、当時の私は、クロゼットのゲイでした。

 ゲイ雑誌の文通欄で知り合った人と、短期間お付き合いしたことはありましたが、ゲイ・バーやゲイのクラブ・イヴェントに足を運んだことは一度もなく、セックス以外でのゲイ・ライフというものを、全く知らずにいました。

 自分がゲイであるという事実は受け入れられない、しかし同性にしか欲情できない。その居心地の悪さを、私は、ゲイ小説というフィクションを綴ることによって、どうにかして自分の中で折り合いをつけようとしていました。一種のセラピーというか。

 それこそが、私がゲイ小説を書いていた、真の動機でした。

 私の書いたゲイ小説は、「自分が自分でいることの、居心地の悪さ」を、主人公がいかにして克服していくか、あるいは折り合いをつけていくかが、主なテーマになっていました。

 たぶん、長年に渡ってゲイ雑誌で活躍を続けておられるゲイ小説家のかたたちと私とでは、だからゲイ小説を書くようになった出発点が、異なっていることと思います。

 自分がゲイであるという事実を、どうにか受け入れることができるようになり、その事実が自分の中でバランスの取れたものになるにつれて、だから書き手としての私の関心は、小説というフィクションからは離れてしまって、その代わりに、自分の大好きな「音楽」を切り口としたLGBTシーンの記録を文章で残していくという、ノン・フィクション的な方向に、重心が移っていきました。

 それが、私がゲイ小説の執筆からは遠ざかってしまった理由です。

 まあ、それはともかくとして。

 クロゼットであった私が、ゲイ・コミュニティのイヴェントに足を運んでみたいと思うようになったきっかけは、2000年に開催された東京レズビアン&ゲイパレードの様子をレポートした、ゲイ雑誌『G-men』の記事と、同じく『G-men』が当時リリースしていたビデオマガジン『VG-men』に収録されていた、2000年の東京レズビアン&ゲイパレードとその関連イヴェントの、レポート映像でした。

 音楽好きの私が特に心を惹かれたのは、2000年の東京レズビアン&ゲイパレードの関連イヴェントとして開催された、第1回 GAY & LESBIAN MUSIC FESTIVAL でした。

 そこに出演していた、のちにゲイ・インディーズと通称されるようになる、ゲイとレズビアンのミュージシャンのかたがたのライヴを、私も実際に体験してみたい――そう、強く思いました。

 だから私は、彼らが出演するゲイのライヴ・イヴェントに、やがて足を運ぶようになりました。

 というのも、彼らゲイ・インディーズのミュージシャンたちは、「ゲイ・コミュニティのイヴェントに足を運ばなければ、会えない人たち」だったから。

 だから、私はクロゼットから出てきました。



 当時、ゲイ・インディーズのミュージシャンたちが、男性同性愛に特化した内容の楽曲を歌っていることに対して、ゲイ・インディーズでは活動をしていない、異性愛向けのフィールドで活動しているゲイのミュージシャンのかたたちが、インターネットを通じて、「音楽にジェンダーやセクシュアリティは関係ない、あらゆる人に向けて歌うべき、ゲイの人たちだけに向けて歌うなんておかしい」などという批判をしていたことが、よくありました。

 たぶん、今でもそう思っている人は、少なからずいらっしゃることだろうと思います。

 しかし、ですね。

 この種の批判は、明らかに、間違ってます。

 なぜならば。

 ミュージシャン側が、リスナーやオーディエンスの属性を限定するなどということは、絶対に不可能だから。

 それとも、本気でそんなことができるとでも思ってるんですかね? そういう批判を飛ばしていた(いる)人たちは。

 だって、よーく考えてみてくださいよ。

 ライヴの入場者の戸籍上の性別や年齢を限定することはできても、性的指向を限定することまではできないでしょ? だって、性的指向を証明する公的書類なんかないんだし、性的指向は外見だけで断定なんかできるものではないんだから。それに、CDの購買層や、公式サイトの閲覧者の性別や性的指向も、限定なんてできるわけないでしょ?

 ミュージシャン側の采配によって限定ができるのは、あくまでも、彼ら自身の活動場所と、歌ったり演奏したりする楽曲の内容だけです。

 ということは。

 男性同性愛に特化した内容の楽曲を歌っているからといって、ただそれだけで、それを聴くリスナーやオーディエンスの性的指向までも限定するなどということは、どだい無理な話なんです。

 それをできると本気で思っているミュージシャンがいるとしたら、それは単なる思い上がり。かつ、無知。

 2014年の東京レインボープライドのステージにも出演なさっていた虹組ファイツのみなさんの歌う楽曲の内容は、完全に男性同性愛に特化されていますが、しかし虹組ファイツには、女性のファンのかたも、非常にたくさんいらっしゃいます。その事実は、虹組ファイツの単独ライヴに実際に足を運べば、どなたにでもすぐにわかることです。それを嘘だと思う人がいるなら、そういう人は、実際に虹組ファイツの単独ライヴに足を運んでみるといい。

 そして、虹組ファイツのみなさんは、女性のファンのかたも、ゲイ男性のファンのかたと同様に、非常に大切になさっています。

 だから、男性同性愛の歌を歌っている=ゲイ男性のリスナーしか相手にしていない、という方程式は、要するに、単なる偏見なんですよ。

 無知と偏見に基づいた、完全なる誤り。

 そしてこのことは、実は音楽に限った話ではありません。たとえば、私がプロの小説家としてデビューした『小説 JUNE』は、「女性向けの男性同性愛雑誌」です。

 だから、男性同性愛を題材にしている=男性同性愛者しか対象としていない、とは限らないんです。

 そういう考えは、無知と偏見に基づいた、完全なる誤りです。

 かつてのゲイ・インディーズのミュージシャンたちは、確かにその活動場所をゲイ・コミュニティに限定しているケースが多かった。けれども、それは決して、リスナーを限定しているということなんかでは、全然なかったんです。

 そして。

 その活動場所をゲイ・コミュニティに限定していたり、あるいはゲイ・コミュニティを中心にしていたりするミュージシャンというのは、「ゲイのライヴ・イヴェントに足を運ばなければ会えない人」なんです。

 そんな彼らのライヴに、私も実際に接してみたい。

 それこそが、私がゲイ・コミュニティに足を運ぶようになった、主なきっかけの一つなんです。

 そして、そんな私と同じように、ゲイ・インディーズのミュージシャンのライヴが観たくて、ゲイ・コミュニティのライヴ・イヴェントに足を運ぶようになったという人が、私の友人・知人には、大勢いらっしゃるんです。



 で、ですね。

 ここでようやく、話は元に戻ります。

 こうした「ゲイのライヴ・イヴェントに足を運ばなければ会えない人たち」である、ゲイ・インディーズのミュージシャンたちを大々的にフィーチャーしていた、2000年代前半の東京レズビアン&ゲイパレードには、当時の私のような、クロゼットのゲイの人たちに、「僕らのコミュニティに出ておいでよ」と、強く訴求する力があった、ということなんです。







 では。

 そのような「ゲイのライヴ・イヴェントに足を運ばなければ会えない人たち」こそが、クロゼットのかたたちに対して強い訴求力を有しているということを、自分自身の体験として知っている私の目に、今現在の東京レインボープライドが、どのように映っているのか、というと。

 たとえば、今年度の夏木マリさんのように、非常に知名度の高いアーティストさんが、プライド・イヴェントに出演なさるというのは、確かにコミュニティ内部に対しても強いインパクトをもたらすし、社会に対しても、その目をセクシュアル・マイノリティの存在へと向けさせる上で、非常に高い効果を発揮します。

 加えて、イヴェント自体にも箔が付きます。

 だから、プラスの面こそ多々あれ、マイナスの面は何らない、とは思っています。

 そしてこれからも、こうした知名度の高い芸能人のかたがたがアライとして出演してくださるのを私は望んでいるし、それを実現するための努力を重ねていらっしゃる運営委員のみなさんを、私は心から応援もしています。

 ただ、ですね。

 自分自身がクロゼットから出てきたときの体験と照らし合わせて考えてみると。

 こうした知名度の高い出演者のかたがたというのは、実は「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ会えない人々」ではない、んですよね。

 ご自分がセクシュアル・マイノリティであることを、受け入れたくともなかなか受け入れられずにいらっしゃる、そういうかたたちが、たとえば夏木マリさんのステージをご覧になりたいと強く願ったときに、一般のコンサートホールでも観られる夏木マリさん単独のステージと、今回のようなプライド・イヴェントと、どちらに足を運ぶかといったら、それはもう間違いなく、前者のはずです。

(夏木マリさんの出演なさるすべてのステージに万難を排して駆けつけるというほどの熱心な追っかけのかたの場合であれば、話はまた別ですが)

 知名度の高い芸能人のかたたちの出演が、強い訴求力を発揮する対象というのは、実はクロゼットのかたがたではありません

 一般社会と、そして既にクロゼットから出てきているセクシュアル・マイノリティのみなさん。そうしたかたたちこそが、知名度の高い芸能人のかたたちの出演が、強い訴求力を発揮する対象なんです。

 ところが、クロゼットのセクシュアル・マイノリティのかたたちに対しては、知名度の高い芸能人のかたたちの出演というのは、そういった芸能人のかたがたが、「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ会えない人たち」ではないからこそ、わざわざ勇気を奮い起こしてコミュニティのイヴェントに足を運んでみようと思う直接的・積極的な理由には、なかなかならないと思うんですよ。

 ただ、それにも例外はあって、2009年5月23日に、やはり代々木公園イベント広場にて行なわれた、第1回 TOKYO Pride Festival、これはちょっと特殊な例です。

※第1回 TOKYO Pride Festival(2009年5月23日開催) 観覧記(Queer Music Experience.) Here >  > 

 TOKYO Pride の主催で行なわれたこのイヴェントには、現在ではミュージカル女優としての評価も高い、女性アイドルのソニンさんや、作家の石田衣良さん、そしてオープンリー・ゲイのタレントの前田健さんのような、一般にも知名度の高いかたたちの出演がありました。

 このイヴェントは、Eテレの『ハートをつなごう』(現:ハートネットTV)の公開収録も兼ねていて、『ハートをつなごう』のLGBT編というのは、自らの性的指向や性の同一性に悩んでいるセクシュアル・マイノリティに向けてメッセージを送るという側面の非常に強い番組であり、したがってこの『ハートをつなごう』の公開収録を目玉企画としていた第1回 TOKYO Pride Festival は、著名人のかたの出演それ自体が、クロゼットのかたがたに強い訴求力を持っていた、そういうイヴェントだったと思います。

 しかし、これはあくまでも例外で、クロゼットでいらっしゃるかたたちが、「自分も足を運んでみよう」と思うきっかけになり得るのは、やはり、知名度の高いかたたちの出演ではない、と思うんですよ。

 というのも、これはくどいようですが、一般にも知名度の高い芸能人・文化人のかたたちというのは、「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ、会うことのできない人たち」ではないから。

 ということは。

 今回の東京レインボープライド2014のステージに出演なさっていたかたがたのうち、クロゼットのかたたちに対しての強い訴求力を持っていらっしゃったのは、たぶん、夏木マリさんではないです。

 仮に、クロゼットのかたたちが、今回の東京レインボープライド2014のステージを観たいがために、実際に会場に足を運んでくださっていたとして、そのきっかけになり得ていたのは、たぶん、夏木マリさんではないはずです。

 まあ、これはあくまでも、私個人の体験に基づいた推測の領域を一歩も出るものではありませんが。

 クロゼットのかたたちが今回の東京レインボープライド2014に足を運んでみようと思うきっかけになり得ていたのは、たぶん、虹組ファイツのみなさんや、二丁ハロのみなさん、そしてメジャー・デビューをはたしていながらも、その活動基盤を新宿二丁目に置いている、今回の司会も務められたキムビアンカさんのようなかたたちではないでしょうか。

 つまり、「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ会えない人たち」こそが、クロゼットのかたがたが今回の東京レインボープライドに足を運ぼうと思ったきっかけになっていたのではないか? と私は思うんです。

(厳密には、いま名前を挙げさせていただいた、どのみなさんがたも、セクシュアル・マイノリティのコミュニティの外でも活躍をなさってはいますが、セクシュアル・マイノリティのコミュニティこそが、これらのみなさんの活動の拠点である、という意味で)



 で、ですね。

 クロゼットのかたたちに向けて、こうしたプライド・イヴェントの魅力をアピールするためには、ゲイ雑誌のような紙媒体が、「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ会えない人たち」の存在を、大きくクローズ・アップしていることが前提となります。

 というのも、セクシュアル・マイノリティのコミュニティに足を運んでいない当事者のかたが、セクシュアル・マイノリティのイヴェントに関する情報を知り得る機会があるとしたら、それはゲイ雑誌か、さもなくばインターネットのどちらかに負うところが大きいからです。

 ゲイ・バーやゲイ向けのバラエティ・ショップなどに置いてある、イヴェントのフライヤーのような印刷物の場合は、クロゼットのゲイのかたたちがそれを手にとって目にする機会は、あまり多くはないはずです。それらの印刷物が置いてある場所に近づくこと自体が、あまりないわけですから。したがって、フライヤーのような印刷物が主な宣伝対象にしているのは、既にゲイ・コミュニティに足を運んでいる、クロゼットではないかたたちです。

 そして、ゲイに関する情報をインターネットのみで収集している、ゲイ雑誌を読んでいないクロゼットのかたというのは、仮にプライド・イヴェントに関心をお持ちになっていたとして、その情報を得たいと思った場合には、当該のプライド・イヴェントの公式サイトに、直接アクセスをするはずです。

 そして、その公式サイトの中で、たとえば虹組ファイツさんや二丁ハロさん、キムビアンカさんのような、「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ会えない人たち」の存在が大きくアピールされていなければ、たぶん、クロゼットのかたたちは、そうした「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ会えない人たち」の魅力に気がつくことはない。それどころか、興味や関心を持つこと自体がないだろうと思います。

 そして、そうした出演者のかたたちに興味や関心を持ってもらえなければ、プライド・イヴェントの公式サイトに掲載されている開催情報だけでは、たぶんクロゼットのかたたちに対してアピールする力はないと思います。

 その意味では、こうした「セクシュアル・マイノリティのイヴェントに足を運ばなければ会えない」という性質の出演者のかたがたが、クロゼットのかたたちに対して発揮する訴求力というのは、実は「条件付き」ではあります。

 現時点で実際にクロゼットでいらっしゃるかたたちの目に、今回の東京レインボープライド2014のプロモーション活動が、どのように映っていたのか、正確なところはわかりません。現在の私はクロゼットではないし、クロゼットのゲイの知り合いもいないので。

 だから、私がここに書いていることというのは、私がクロゼットだったころの体験と照らし合わせた上での、単なる憶測でしかありません。

 ただ、私が今回の東京レインボープライド2014の公式サイトや、公式ガイドを目にして、そして代々木公園に実際に足を運んでみて、そこで感じた第一の感想というのは、

「今回の東京レインボープライドは、はたして、クロゼットのかたたちの目から見て、『自分も勇気を奮い起こして、実際に足を運んでみよう』と思わせる魅力を有していたのかどうか」

 ということでした。

 現在の私は、クロゼットではないから、こうしたプライド・イヴェントに、何ら気負うことなく足を運ぶことができます。そして、楽しかったかどうかについて訊かれれば、もちろん「楽しかった」と答えます。

 私個人にとっての楽しさという点で、大きな不満はありません。

 ただ、ですね。

 私は先にも書いたように、プライド・イヴェントによって人生が大きく変わった人間であり、恩義のようなものを感じているからこそ、プライド・イヴェントの運営側のかたたちには、クロゼットの人々への視点というものを、決して失ってほしくはないし、私は常にその点を気にしています。

 今回の東京レインボープライド2014は、00年代前半の日本のプライド・パレードが実現できていなかった数多くの懸案事項を実現できているかわりに、クロゼットでいらっしゃる多くのセクシュアル・マイノリティのかたたちに対して「あなたはそのままでいいんだよ」と呼びかけるメッセージ性が、正直、それほどには感じられなかったんですよ。

 もうちょっと正確に書くならば、「“自分自身を受け入れる”という内面の葛藤の段階を既にクリアしているセクシュアル・マイノリティのためのお祭り」、という色彩が強かったのではないか。

 少なくとも、「まだ自分で自分を受け入れられないかたたちが、自分は自分のままでいいのだということを確認できる、そのためのお祭り」ではなかったように、少なくとも私個人は、感じました。

 それが私の、正直な、かつ率直な、実感です。



 既に何度も繰り返して書いているように、今現在の東京レインボープライドの方向性に問題があるなどとは、私は考えていません。

 こうしたプライド・イヴェントの開催を継続していくためには、一般企業からの協賛や広告をとりつけること、つまり商業性を帯びることは必要です。

 00年代前半の日本のプライド・パレードでは、開催の継続化のために、ある程度の商業性は必要であると考える実行委員に対して、商業性というものをまるで俗悪なもののように考えている学生のボランティア・スタッフからの反発が大きかったという話を、私はかつて実行委員長を務めたことがある某氏の口から直接聞いたことがあります。

 また、著名人のかたの出演や参加も、これまた先にも書いたとおり必要なことだと思うし、政治的なメッセージの発信も、やはり必要です。

 特に、日本という国は、先進国の中でも、最も人権意識の低い国の一つです。

 ヘイト・クライムやヘイト・スピーチだけが差別だと考えていて、法の上での不平等もまた同じように差別なのだとは認識していない人が、本当に、本当に、多い。

「私は同性愛者に対して差別意識はない」と言いながら、それを言ったのと同じ口で、同性愛者の法の上での不平等に積極的に賛同しているという人が、今でもネット上には大勢います。確かに00年代前半のころに比べると、そうした無知に基づく無意識的な差別発言は、パッと見には目につきにくくなってきてはいますが、それは単にソーシャル・ネットが主流になったため、mixi や Facebook 内での差別発言が Google 検索には引っかかってこない、というだけに過ぎません。今でもそうした無知に基づく無意識的な差別発言は、発信され続けています。

 そのような日本だからこそ、セクシュアル・マイノリティ当事者の側からの、政治的なメッセージの発信も大切だし、必要です。

 だから、現在の東京レインボープライドの方向性が、間違っているなどとは思っていません。

 むしろ、このままの路線で継続していってほしいとも思っています。

 だから、私が望んでいるのは、あくまでも、既に今ある路線に加えて、自分がセクシュアル・マイノリティであることを受け入れられずに苦しんでいる当事者に向けてのメッセージを送るということも、決して取りこぼしてほしくはない、おろそかにしてほしくはない、ということなんです。

 社会におけるセクシュアル・マイノリティの可視化と、その存在の確固たる構築、そして社会に向けての政治的メッセージの発信。それらは非常に大事なことではあります。大事なことではあるんだけれども、でも、それらにばかり比重が置かれてしまって、その姿が今でも不可視であるクロゼットの当事者へのメッセージの発信が、おろそかになってはいけない。

 そういうかたたちを、置いてけぼりにしてはダメです。絶対に。

 正直、私は、この、「今でもその姿が不可視の状態にある当事者へのメッセージの発信」という点が、徐々におろそかになりつつある気配を、感じました。

 00年代前半のころの日本のプライド・パレードでは、同じセクシュアル・マイノリティの友人が欲しいという理由で、パレードのボランティア・スタッフに参加していたというかたたちが、数多くいらっしゃいました。だから、きっと今現在の東京レインボープライドにおいても、同じような理由からボランティア・スタッフに参加されていたというかたは、きっといらっしゃることと想像しています。

 ただ、そうした「友人づくりの場」としての魅力を、母体となっている運営団体が、積極的にアピールしているのかどうか。

 この点にも、私は00年代前半のころの日本のプライド・パレードとの違いを感じています。

 社会におけるセクシュアル・マイノリティの存在の確固たる構築と、社会に向けたメッセージの発信。それらにばかり比重が置かれるようになってしまうと、たぶん、プライド・イヴェントは、その他大勢の当事者の実態からは、乖離していきます。

 もう少し具体的に言うと、肝腎のセクシュアル・マイノリティ当事者への働きかけが弱いプライド・イヴェントというのは、その実態が、セクシュアル・マイノリティのためのイヴェントではなく、「セクシュアル・マイノリティの手による、異性愛者のためのイヴェント」になってしまうかもしれない、ということです。

 それがつまり、セクシュアル・マイノリティのコミュニティの実態からは乖離したイヴェントになってしまう、ということです。

 だから、対社会を過剰に意識した結果としての、肝腎のセクシュアル・マイノリティ当事者への働きかけの弱さを、私は危惧しています。

 セクシュアル・マイノリティの存在を社会的にも確立させることを目指すのであれば、働きかけるべき対象は、確かに、実はセクシュアル・マイノリティの当事者ではなく、異性愛のみをスタンダードとしている既存の社会に対してです。だから、東京レインボープライドの運営側が、一般企業からの協賛や広告を積極的に取りつけたり、社会的に知名度のあるアライの著名人に、イヴェントへの出演・参加を交渉したりすることを、私は間違いだなどとは、全く思っていません。むしろ、それこそが東京レインボープライドの採るべき道だと私は思っているし、これからも引き続き、そのような努力をお願いしたく思っています。

 しかし、ここがプライド・イヴェントの難しいところで、その参加者がセクシュアル・マイノリティの当事者である以上は、当事者に向けたメッセージも、併せて積極的に発信しなければいけない。

 この、「対社会に向けたメッセージの発信」と、「セクシュアル・マイノリティの当事者に向けたメッセージの発信」、この二つの両立が、徐々に難しいものになってきているのではないでしょうか

 そのような気配を、私は今回の東京レインボープライド2014で、感じました。

 現在の東京レインボープライドは、その運営を継続可能なものにしていくためにこそ、働きかけを行なっていかなければならない対象が多すぎるから(つまり、それだけ大変な活動内容をこなしていらっしゃるのだと想像します)、それがために、不可視の状態に今でもある当事者の存在が、徐々に念頭に浮かびにくくなっていたり、あるいは優先順位が下がりがちになりつつあるのかもしれない。

 そういう気配を、私は感じるんです。

 もちろん、「セクシュアル・マイノリティへの差別や偏見のない社会の実現」こそが、クロゼットのかたたちであっても表に出やすくなる社会の実現なのだから、「対社会に向けたメッセージの発信」の中に、クロゼットのかたたちに向けたメッセージの発信も含まれているのだ、という考え方も、可能といえば可能です。

 ただ、クロゼットのかたたちにとって、より切実な問題であるのは、「セクシュアル・マイノリティへの差別や偏見のない社会の実現」ではないはずなんですよ。

 自分自身の体験に照らし合わせてみても、そのように思います。

「セクシュアル・マイノリティへの差別や偏見のない社会の実現」というテーマは、実は「自分で自分を受け入れること」ができてからの、次の段階の話なんですよね。社会がどうこうとかいう以前に、まずは「自分で自分を受け入れられるようになること」だけで精一杯だから。

 まずは「自分で自分を受け入れること」、そして「自分がセクシュアル・マイノリティであることを恐れる気持ち」を、いったいどうやったら取り除くことができるのか、それらの命題のほうが、クロゼットのかたたちにとっては、より切実な問題のはずです。



 プライド・イヴェントというのは、セクシュアル・マイノリティの当事者の参加があって、初めて成立するものです。当たり前の話ですが。

 しかし、当たり前ではあるんですが、それが当たり前である以上、セクシュアル・マイノリティ当事者へのメッセージの発信がおろそかになってしまっては、これはもう本末転倒です。

 もちろん、今現在の東京レインボープライドがそうだと言っているのではありません。そうなってしまうことを私は危惧している、ということです。

 そして、セクシュアル・マイノリティの当事者のかたたちへのメッセージで肝要になってくるのは、プライド・イヴェントの現場に姿を見せたくても見せる勇気をなかなか奮い起こせずにいる当事者のかたたちに、「大丈夫だよ、ここにおいでよ、ここには仲間がたくさんいるよ」と呼びかけることです。

 これまた当たり前の話なんですが、セクシュアル・マイノリティの当事者のかたたちのうち、コミュニティに足を運んでいらっしゃるかたたちのほうが、実はマイノリティの中のマイノリティです。

 セクシュアル・マイノリティの当事者の大半は、コミュニティに足を運んではいません

 ましてや、プライド・イヴェントに足を運んでいる当事者のかたたちというのは、本当にごく限られた、ほんの一握りの人々にしか過ぎません

 したがって、プライド・イヴェントに足を運んではいない、あるいは運びたくても運べないかたたちへの働きかけがおろそかになるということは、それはイコール、プライド・イヴェントがセクシュアル・マイノリティの当事者の大半のかたたちの実状からは乖離したイヴェントになってしまう、ということに他なりません

 そういう危険性が、そろそろ顔を出し始めたかな、と。

 そういう感触が、正直、私にはありました。

 それが、今回は傍観者の立場にあった私が感じた、運営側のみなさんの事情・心情を斟酌できていないことは承知の上での、率直な感想です。

 クロゼットのかたたちに向けたメッセージの発信が、00年代前半のころのプライド・イヴェントに比べると、それほど目立たなくなってるんですよ。

 セクシュアル・マイノリティの可視化がどれだけ進もうとも、あるいはセクシュアル・マイノリティの存在に理解を示す企業や公的機関の数がどれだけ増えたとしても、そうした数字の増加は、ご自分がセクシュアル・マイノリティであることを受け入れられていない当事者のかたたちの減少とは、必ずしもイコールとは限りません。

 ご自分がセクシュアル・マイノリティであることを受け入れられていない当事者のかたたちのほうこそが、実はマイノリティの中のマジョリティであるという実状に、依然として変わりはないはずです。

 そうしたかたたちへのメッセージの発信を怠っているプライド・イヴェントというのは、その規模がどれだけ大きいものであろうとも、結局のところは、自分がセクシュアル・マイノリティであることを既に受け入れることのできている、限られた一部の人々のためのお祭りでしかなくなってしまう。そう私は思うのです。

 クロゼットだったころの私は、2000年の東京レズビアン&ゲイパレードと、その関連イヴェントの盛り上がりを見て、自分もゲイ・コミュニティに足を運んでみようと思った人間です。

 クロゼットだった私の人生を、前向きなものに変えてくれた、そんなプライド・イヴェントに、私は強い恩義を感じています。

 だからこそ、そのようなプライド・イヴェントが、クロゼットのかたたちの存在を取りこぼすようなことになってしまったら、私は悲しい。

 クロゼットのかたたちへと向けたメッセージの発信を、絶対におろそかにしないでほしいのです。



 本当にくどいようですが、私は現在の東京レインボープライドの基本的な方向性が間違っているとは思っていないし、東京レインボープライドのみなさんの努力と成果は、本当に素晴らしいものだと思っています。

 楽しい時間を過ごさせていただいたこと、本当に感謝しています。

 私がここで書いていることというのは、要するに、現状批判ではなく、これからはこういうところに注意をしていただきたい、ということです。

 そして、本来セクシュアル・マイノリティの当事者の大多数であるはずのクロゼットのかたたちに対して、強い訴求力を有しているのは、実は、アライの著名人の出演ではない、ということです。

 アライの著名人の出演者や参加者のかたが有している訴求力というのは、一般社会と、そして既に自分自身を受け入れてコミュニティに足を運んでいるセクシュアル・マイノリティのみなさんに対してのものです。

 プライド・イヴェントの内容の良し悪しを、そこに出演なさっているかたがたの知名度の有無とか高低で判断しようとなさるのは、はっきり言ってしまえば、既にクロゼットの外に出てきている、自分がセクシュアル・マイノリティであることを受け入れられている人たちと、そして、一般社会の人たちだけです。

 自分がセクシュアル・マイノリティであることを受け入れられないクロゼットのかたたちから見れば、非常に知名度の高いかたたちがプライド・イヴェントに出演していようとも、それは「足を踏み入れるのを怖れている世界での出来事」なんだから、イヴェントの内容の良し悪しだとか箔だとかを考えるという発想自体の持ちあわせが、そもそもないんですよ。他ならぬ自分自身がそうだったので。

 本当はコミュニティに足を運びたいと思っているのにそれが難しいというクロゼットの当事者のみなさんに対して、強い訴求力を有しているのは、先にも名前を挙げたように、虹組ファイツのみなさんや二丁ハロのみなさん、司会も務められたキムビアンカさんのような、その活動基盤をコミュニティに置いているパフォーマーのかたたち、

 つまり、

「コミュニティのイヴェントに足を運ばなければ、会うことのできない人たち」です。

 事実、今回の午前の部で、二丁ハロさんがパフォーマンス中のMCで発信なさったメッセージというのは、一般社会に向けてのものというよりも、完全にゲイの当事者に対してのものです。

「たとえゲイであっても、『アイドルになりたい』という夢をあきらめることはないんだ」(この場合の「アイドル」というのは、「女性アイドルと同種の活動内容」という意味です)というメッセージは、「ゲイであることを前向きに受け入れよう」というメッセージと、完全に同義です。

 しかし。

 そうしたかたたちの存在には、なかなかスポットが当たりにくいのが現状です。

 確かに、著名人の出演や参加があれば、プライド・イヴェントの様子がマス・メディアで取り上げられる機会は増えるし、そのことはセクシュアル・マイノリティの存在の、社会への周知という点で、大いに望ましいことではあります。しかし、マス・メディアにとってニュース性があるのは、そうした「著名人の出演や参加」という点であって、同じセクシュアル・マイノリティの当事者に向けて前向きなメッセージを発信している、「コミュニティのイヴェントに足を運ばなければ会えない」という性質の出演者のみなさんには、なかなかスポットが当たらない。

 だからこそ。

 そうした出演者のみなさんが、クロゼットのかたたちに対して強い訴求力を発揮するためには、先にも述べたように、ゲイ雑誌のような紙媒体が、そうした出演者のみなさんにも大きくスポットを当てたレポート記事を掲載しなければいけない。

 そして、私のようなブロガーが、そうした出演者のみなさんの存在と、そのメッセージの内容に、積極的にスポットを当てて、それを草の根的に拡散していかなければ、たぶん、これからの東京レインボープライドは、運営側のみなさんが、「クロゼットのかたがたへのメッセージの発信」に自覚的にならない限りは、クロゼットのかたがたに対する訴求力を、失っていく一方になると思います。



 というわけで。

 次回の記事では、私が実際に拝見した、午前の部のステージに出演なさった、虹組ファイツのみなさんと、キムビアンカさんのステージについて、書いていきたいと思います。

 長文、かつ乱文、大変失礼いたしました。


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2014.05.04 Top↑
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