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 2014年6月28日(土)、福岡の Cotton Club Cafe (コットンクラブカフェ)を会場にして、今年も Sound Summit が開催されました。

 Sound Summit は、2014年現在では、この日本で唯一の、「定期開催されているLGBTのライヴ・イヴェント」です。2002年に初めて開催されて以降、今年まで開催が継続されています。

 ※Sound Summit 2014公式サイト http://ss.k-toom.net/pc.htm

 この Sound Summit 2014の公式サイトに掲載されている、イヴェントの開催趣旨を、以下に引用させていただきます。

“年に一度、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイ・トランスジェンダー)並びに

セクシャルマイノリティーに理解のあるミュージシャンにより開催されるSOUND SUMMIT。

プロ・アマチュア問わず、地元福岡のミュージシャンを中心に、

全国から交流のある人気ミュージシャンを招いて開催しています。

2002年にたった3組のアーティストで始められたこのイベントも今年で13年目。

今では国内で最も歴史のある最大級のLGBTライブイベントになりました。

今回は原点に返り、弾き語りや小編成ユニットを中心に

歌詞の伝わる出演陣でお届けします。

LGBTシーンのみならず、ネット上で仲間と出会うパターンが

以前より格段に増えている昨今、私達は敢えて「ライブ」というリアルな空間に身を置き、

また感動することで、改めて人と人とが生で出会うことの素晴らしさ、

そこから生まれる自身の存在の価値を感じてもらえるのではないかと考えています。

SOUND SUMMITの出演者はそれぞれの表現力で、笑い・楽しさ・切なさ・悲しさ、

感情のドアを優しくノックする歌や演奏を披露してくれるアーティストばかりです。

SOUND SUMMITに参加することによって感動し、

それまでの自分では考えられなかった価値観を見出してもらうことによって、

「ひとりひとり、みんな違うからこそ大切な存在」このメッセージが、

一人でも多くの方に伝わることを願います。”



 私が Sound Summit に足を運んだのは、実は、2005年のたった一度きりしかありません。

 関心がないわけでは全然ありません。ごく単純に、日程の都合がつかなかったり、あるいは金欠であったりと、そういう至って現実的な理由から、なかなかお伺いすることが叶っていません。

 ちなみに、2005年という年は、今から振り返ってみると、日本のゲイ・インディーズ・シーンが退行の道を歩み始める直前の、最後の大きな盛り上がりを見せた年でした。

 その2005年の Sound Summit の観覧記がこちら。

 ※SOUND SUMMIT 2005観覧記 [2005年7月10日 at 博多 The Voodoo Lounge] (Queer Music Experience.)

 この後、つまり2006年以降、日本のゲイ・インディーズ・シーンは、退行・自壊・消滅の道を辿りました

 そうした退行・自壊・消滅の様子をリアルタイムで目にしてきた者の一人として、私は、Sound Summit のような「LGBTのライヴ・イヴェント」のありかたについては、いろいろと思うところがあります。



 まず、上に引用した、Sound Summit の開催趣旨の中でも語られている、「LGBT(レズビアン・ゲイ・バイ・トランスジェンダー)並びにセクシャルマイノリティーに理解のあるミュージシャンにより開催される」という部分。

 これは言いかたを変えると、「出演者はLGBTだけとは限らない」、ということですよね。

 確かに、LGBTと、非LGBTの共存は、目指すべき究極の理想ではあります。しかし、この究極的な理想を、「LGBTのライヴ・イヴェント」という場において、正しい意味で実現するにあたっては、実は条件があります。

 それはいったい何かというと、「出演者のうち、いったい誰がLGBTで、いったい誰がLGBTのアライ(支援者)なのかを、第三者にもわかるように明示する」、ということです。

 その理由は何故か。

 LGBTと非LGBTの共存が、単に同じ場に存在しているというだけのことであれば、それは目指すべき理想でも何でもなくて、単なる「現実社会の映し鏡」です。

 現在の我々の社会は、多くのLGBTが、自身の性的指向や、あるいは戸籍上の性別を隠しながら、非LGBTの人たちと、物理的に「共存」している。

 しかし、イヴェントの開催趣旨などの中で理想として掲げられているような類の、LGBTと非LGBTの「共存」とは、そういうものではないはずですよね?

 究極の理想であるところの、LGBTと非LGBTの「共存」とは、「LGBTの人々が、自身がLGBTであることを隠したり偽ったりすることなく、非LGBTの人々と共に社会生活を送っていけること」、であるはずです。

 ――そうですよね?

 そして、もしもそうであるならば。

 たとえ、出演者の全員がLGBTとアライのミュージシャンであるという事実が、部外者にもわかるよう明確に謳われたライヴ・イヴェントであっても、その出演者のうちの、いったい誰がLGBTで、誰がLGBTのアライ(支援者)であるのかの明示が行なわれておらず、個々の出演者の性的指向については、理由はどうであれ意図的に曖昧にされている限り、それは、LGBTにとっての究極の理想の具現化とは、残念ながら言えない、ということです。

 結局、そうした状態というのは、たとえLGBTであることを周囲から疑われたとしても、それを曖昧にぼかして、適当にやりすごしてさえしまえば、波風を立てることもなく、少なくとも当面は安穏に生活していけるという、いかにも日本的な社会体質の反映、なんですね。

 それは理想の具現ではない。

「日本社会の現状の映し鏡」です。

 2006年以降の日本のゲイ・インディーズ・シーンが、退行・自壊・消滅していった理由というのは、一口で言ってしまえば、「出演者は全員ゲイなのに、表向きにはそれを謳っていないライヴ・イヴェント」、いわば「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」が、シーンの主流となっていったことに拠ります。

(私がここで取り沙汰しているのは、あくまでも「性的指向をイシュー化しているか否か」という一点のみです。したがって、たとえそれが「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」であったとしても、開催趣旨そのものは性的指向とは無関係、というタイプの「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」も、多く存在しています。そのような場合には、性的指向のイシュー化がなされていないからといって、それだけを理由にして、別個に存在している開催趣旨の意義までもを否定してしまうなどということは、あってはなりません。また、このようなタイプのライヴ・イヴェントの場合、イヴェントの開催趣旨と性的指向とのあいだには全く何の関連性がないのにもかかわらず、どうして出演者は全員LGBTなのか、という疑問は生じます。しかし、性的指向がここではイシュー化されていない以上、これもまたやはり、開催趣旨の意義自体の否定材料にはなりません。つまり、「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」であることそれ自体は、否定されるべきことではない。そのことは、あらかじめ断わっておきます。)

 そして、「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」がゲイ・インディーズ・シーンの主流となっていった主要因というのは、ファンからのニーズに対応したというよりも、後発のオーガナイザーたちの、彼ら自身の指向によるところが大でした。

 しかしですね、そもそも日本のゲイ・インディーズというのは、自身の性的指向に立脚した音楽活動を志していたインディーのLGBTのミュージシャンたちが、それまでは活動上の横のつながりを持っていなかったのが、2000年の東京レズビアン&ゲイパレードの開催を契機にして、一同に結集し、パレードの関連イヴェントないしは応援イヴェントとして、LGBTのミュージシャンたちによる、いくつものLGBTライヴ・イヴェントを企画、開催したことによって、ムーヴメントとして顕在化したものなんですね。

 ということは、ゲイ・インディーズ・シーンというのは、そこで活動するミュージシャンたちが、自らの性的指向を主張していなければ、ムーヴメントとしての意味合いとか必然が、全く失われてしまうものなんですね。これはもう、火を見るよりも明らかな、自明の理なんです。

 ゲイ・インディーズがムーヴメントとして成立するための必然というのは、すべてこの、「出演者自身による性的指向の主張」に負っている(いた)んです。

 そして、この「出演者自身による性的指向の主張」を、いったいどのような形で行なっていくのか――たとえば、歌詞の中で性的指向を明示するのか、あるいは楽曲ではなくMCの中で示すのか、それともパフォーマンスの中で視覚的に、あるいは聴覚的に示すのか、etc――といった点や、主張の程度の違い――たとえば、歌うアクティヴィストとして政治的なメッセージを積極的に発信していくのか、あるいは、自身がLGBTであることは引き受けたとしても、アクティヴィストとして政治的なメッセージを発信することはしないのか、etc――については、一つの決まった方程式があるわけではありません。それらの違いは、各々のミュージシャンの表現手法の違い、個性の違いとして論じられるべき性質のものです。

 ただ一つだけいえるのは、「出演者自身による性的指向の主張」というのは、ゲイ・インディーズ・シーンにおける大前提であり、必要最低条件だ、ということです。

 そして、私が今ここで述べていることというのは、既に2003年7月の時点で、私は Queer Music Experience.に掲載しているライヴ観覧記の中で、ほぼ同様のことを書いているんですよね。

 それがこちら。

 ※第9回 Ball de Musa 観覧記 [2003年7月26日 at 新宿 HEAD POWER] (Queer Music Experience.)

 この観覧記の中で、私はこう書いています。

「ゲイ・インディーズの音楽の定義というものは、『ゲイというセクシャリティについて何らかの形で自己言及する音楽』」

「ゲイ・インディーズというものが自己申告によってのみ形成されるムーヴメントであることは、誰にも動かしようのない事実であり、シーンを形成するマグネットとなっているのが『自己申告』である以上、その成立を支える要因への意識が当事者であるミュージシャンたちのあいだで薄まっていった場合、それはシーンを形成する磁力自体が弱まっていくことをも意味する」


 ――2003年という、かなり早い時点で、私は既に、このように、ゲイ・インディーズ・シーンの行く末に、警鐘を鳴らしていました。ゲイ・インディーズの当事者と多くつながっていたソーシャル・ネットの mixi の日記では、もっと直接的に、警告を発していました。

 私は、ゲイ・インディーズの音楽と出会ったことがきっかけで、クロゼットから出てきて、ゲイ・コミュニティに足を運ぶようになり、恋愛やセックスだけではないゲイの人生を知ることができた人間です。だから、私にとってゲイ・インディーズ・シーンは非常に大切なものでした。そして、その大切なものが消滅してしまうのを防ぎたいという思いで、私は早い段階から、警告を発信し続けていました。

 私がゲイ・コミュニティに足を運ぶようになったきっかけを記している記事は、こちら。

 ※東京レインボープライド2014について感じたこと。(ブログ版 Queer Music Experience., 2014.05.04)

 しかし。

 残念ながら、日本のゲイ・インディーズ・シーンは、私が第9回 Ball de Musa の観覧記の中で危惧していたとおりの道を辿って、自然消滅しました。

 出演者は全員ゲイでありながら、それが表向きには伏せられているライヴ・イヴェント、つまり「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」というのは、ゲイ・インディーズ・シーンが顕在化するよりも前の時代から、既に存在していました。

 そして、それらのライヴ・イヴェントと、ゲイ・インディーズ・シーンとの違いというのは、「そこに出演しているミュージシャンたちが、自らの性的指向を主張しているか否か」、という部分なんです。

 したがって、出演者が全員LGBTでありながら、それが表向きには伏せられているLGBTのライヴ・イヴェントというのは、要するに、ゲイ・インディーズ・シーンが成立するよりも前の時代への逆行・退行であって、ムーヴメントであることの必然を、自らの手で放棄・喪失した、ということに他ならないんです。

 出演者が自ら性的指向を主張することをしなければ、結局のところ、それはゲイ・コミュニティの外で行なわれている一般的な対バン・ライヴ・イヴェントと、何ら変わるところはありません。

 ゆえに、それがわざわざゲイ・インディーズなどと呼ばれる必然も、当然、失われます。

 それにもかかわらず、出演者が全員LGBTでありながら、それが表向きには伏せられているというライヴ・イヴェントは、日本のゲイ・インディーズの成立事情をわかっていない(あるいは性的指向のイシュー化を意識的に棚上げにしたい)後発のオーガナイザーたちの先導によって、日本のゲイ・インディーズ・シーンの主流になっていきました。

 結果、日本のゲイ・インディーズは、ムーヴメントとしての必然を自ら喪失し、自然消滅していったのです。

 ゲイのライヴ・イヴェントであることを表立って謳ってはいない、「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」は、2014年の現在も、開催が続いています。私は、それらの「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」を、否定はしていません。Queer Music Experience.で取り上げることはしないというだけです。性的指向をイシュー化したくないミュージシャンのかたたちにとっては、オープンリーのLGBTミュージシャンに焦点を絞り込んでいる Queer Music Experience.で話題にされてしまうということは、アウティングされたも同然のことになってしまうので。

 これは誤解されたくないんですが、たとえクロゼットのゲイのミュージシャンのかたであっても、私が応援している、大好きなミュージシャンのかたというのは大勢いますよ。ただ、そうしたミュージシャンのかたたちのことを、このブログや Queer Music Experience.では話題にしていない、というだけです。クラシカル・ミュージックの雑誌に EDM の記事は載らないし、あるいはヘヴィ・メタルの雑誌にボーイバンドの記事は載らない、それと同じことです。これはサイトやブログの編集方針に基づいた、単なる「住み分け」です。

 そして、2014年現在の日本のゲイのインディー・ミュージシャンのみなさんの大半が活動場所として望んでおられるのは、たとえ現在という時代が「ゲイ・インディーズ後」の2014年であってさえも、出演者は全員ゲイで占められていて、それでいて性的指向はイシュー化されていないという、そうした「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」なのだという、客観的事実としての傾向を、私は、日本という国のLGBT事情の判断材料の一つとして、否定はせず、そのまま受け入れています。

 それが日本という国の現状なのだと、そう認識しているだけです。

 ただし、もしもその開催趣旨の中で、それが「LGBTのライヴ・イヴェント」であることが明確に謳われている場合には、私はそのライヴ・イヴェントを、単なるライヴ・イヴェントとしてではなく、「LGBTのライヴ・イヴェントとしてはどうなのか」、という観点から、取り沙汰をさせていただきます。

 だって、性的指向をイシューとして明確に掲げているからには、ライヴ・イヴェントとして面白ければそれだけで無条件に大成功だ、とは言えないはずですよね?



 というわけで、話はここでようやく、Sound Summit に戻ります。

「LGBTのライヴ・イヴェントとしてはどうなのか」という観点から、現状の Sound Summit を取り沙汰することは、本来であれば、私には不可能です。

 なにしろ、自分の目では観ていませんから。

 観ていないものを、ああだこうだと取り沙汰することは、本来ならできません。

 ライヴ開催後、Sound Summit のオーガナイザーである、Guzzle Pitt の KURO さんのブログを拝読したのですが、そこで KURO さんが記されている内容というのは、あくまでも、単なる一つのライヴ・イヴェントとしての Sound Summit のありかたについてであって、「LGBTのライヴ・イヴェント」としての Sound Summit はいったいどうあるべきなのかについての考察は、おそらくは意識的にオミットされています。

 ※SS2014盛況御礼/7月のイベント(日々のあわわ、2014.07.04)

 また、この記事の最後に転載させていただく、日本有数のインディー・ミュージック・ウォッチャーでいらっしゃる、たけださとしさんによる一連の実況ツイートも、やはり「LGBTのライヴ・イヴェント」としての Sound Summit はどうであったのかについては、こちらもおそらくは意識的に、触れられてはいません。

 だから、現状の私には、Sound Summit が「LGBTのライヴ・イヴェント」としてはどうであったのかを論じることは、本来ならできません。

 ただ、非常に気になったのは、今回の Sound Summit の公式サイトを見る限りでは、その開催趣旨の中で、これが「LGBTのライヴ・イヴェント」であることが明言されている一方で、個々の出演者の性的指向は曖昧にされている、という点なんです。

 もちろん、実際の現場では、そのパフォーマンスの中で、個々の出演者の性的指向が明示されていたのかもしれません。

 しかし、KURO さんのブログや、たけださんのツイートを拝読しても、出演者自身による性的指向の明示があったのかどうか、そこのところが、全く触れられていないんですね。

 だから、私には、今回の Sound Summit が「LGBTのライヴ・イヴェント」としてどうだったのか――言いかたを変えれば、それがはたして「LGBTにとっての理想の具現」であったのか、それとも「日本社会の現状の映し鏡」であったのか――を論じることは、実はできません。

 Sound Summit を、性的指向というイシューから切り離して観た場合には、歴史ある一つのライヴ・イヴェントとして、非常に素晴らしい内容であったろうことが、実際に足を運ばれたかたたちのツイートからは、窺い知ることができました。

 しかし、これを「LGBTのライヴ・イヴェント」としてとらえ、そして論じている声は、残念ながら、私の耳には、一つとして入ってきていないんですよ。



 これは昔の例になりますが、2008年11月6日に、出演者は全員ゲイでありながら(ただしサポート・ミュージシャンは除く)、それがゲイのライヴ・イヴェントであることは表立っては謳わずに毎年大阪で開催されていたライヴ・イヴェント、LIVE STARTING OVER の VOL.4のステージで、出演者のお一人であった屋良朝友さんは、そのMCの中で、「この LIVE STARTING OVER は、ゲイ・イヴェントではありません」と明言し、しかしご自身の性的指向はゲイであること、そしてサポート・ミュージシャンのかたは異性愛であることもきちんと紹介なさった上で、大阪のゲイ・バーの様子について、おふたりで延々と、いつもの屋良さんのMC時間に比べれば明らかに長々と、お話をされました。

 これというのは明らかに、LIVE STARTING OVER が、ほとんど実質的には「LGBTのライヴ・イヴェント」として開催されていたのにもかかわらず、定義の上では「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」であったという、つまり「性的指向のイシュー化をしたいのかしたくないのかが極めて曖昧」であることへの皮肉でした。そのことは、わかる人にはわかったはずです(屋良さんが誤解されないよう念のために言っておくと、「皮肉」というのは「遠回しの苦言」であって、「否定」とは全然違いますからね。否定なさっていたのなら、最初からご出演はしていらっしゃらなかったはずです。そして、このような屋良さんのMCがあったからこそ、あえて私は、LIVE STARTING OVER の観覧記を、このブログの中で書かせていただきました)。

 ※LIVE STARTING OVER VOL.4観覧記 [2008年11月6日 at 大阪 MINOYA HALL] (ブログ版 Queer Music Experience.)

 また、2010年8月14日に開催された、第7回東京プライドパレードのステージに出演なさった、著名シンガー/ソングライターの中西圭三さんは、そのMCの中で、「僕はアライとして参加しています」ということを、そこに集った大勢のオーディエンスのみなさんに向かって、明言なさっていました。

 ※第7回「東京プライドパレード」レポート(5)今年のパレードを象徴する晴れやかなステージ [2010年8月14日 at 渋谷 代々木公園イベント広場] [ゲイのための総合情報サイト g-lad xx(グラァド)]←本文の執筆と写真撮影を担当したのは、この私です。

 この第7回東京プライドパレードにおける中西圭三さんのように、性的指向をイシューとして明確に掲げているライヴ・イヴェントの場合には、たとえ異性愛の出演者のかたであっても、性的指向がイシューとされている以上は、自身の性的指向を明言し、自身がアライであることを示すのが、アライも出演するLGBTのライヴ・イヴェントの本来のありかたです。たぶん、中西圭三さんは、欧米のLGBT事情についても知識がおありのかたなんじゃないかと私はお見受けしています。そうでなかったら、日本のLGBTのみなさんの大半にとってもいまだに馴染みの薄い「アライ」という言葉が、スルッと出てくるわけがないので。

 一方、今回の Sound Summit が、少なくともプロモーションの上ではどうだったのかというと、それが「LGBT(レズビアン・ゲイ・バイ・トランスジェンダー)並びにセクシャルマイノリティーに理解のあるミュージシャンにより開催される」と明確に謳われているにもかかわらず、個々の出演者の性的指向は、曖昧なままです。

 実際に会場に足を運ばなければ、誰がLGBTで誰がアライなのかが窺い知れないような、そういうクローズドなプロモーションが行なわれている。

 しかしですね、日本のゲイ・インディーズ・シーンを自然消滅に至らせた主要因というのは、まさにこの、「出演者の性的指向を明示せず、性的指向のイシュー化を棚上げにする」、という点なんです。理由は、先に述べたとおりです。

 もちろん、出演者の性的指向を曖昧にせざるを得ない、やむなき事情が介在している場合もあるでしょう。そのことは私も理解しています。たとえば、ある出演者が既に芸能事務所に所属していて、そのミュージシャン本人はゲイであることを隠したいわけではなかったにもかかわらず、所属事務所の意向はそうではなく、最終的には事務所側の意向を優先させる措置を採らざるを得なかったという例も、私は知っています。また、ミュージシャン同士の人間関係の難しさという要因もあるでしょうし、そのことも理解はしています。

 しかし、理屈から言えば、自身がLGBTであることを公にしたくないミュージシャンが、「LGBTのライヴ・イヴェント」に出演するのは、明らかに「矛盾」なんです

 あくまでも、理屈から言えば、の話ですが。

 ちなみに、LGBTのミュージシャンの活動スタンスの違いというのは、正誤で論じられるべき性質の問題ではありません。

 LGBTのミュージシャンが、自身の性的指向と、自身の表現活動を、どのように結び付けていくのか、あるいはどのように切り離すのか、それは各々の自由です。そこに正誤はありません

 ただ、それが各々の自由である以上は、自身のスタンスに見合った最適な活動場所を、自らの意志で選んでいくという責任も、そこには伴うはずです。自由というのは、自分の行動の責任は自分でとる、ということであって、思うがままの自分本意のふるまいが許されるということではないし、自身の選択の結果として生じたトラブルの責任を他者に転嫁することも、あってはならないことです

 したがって、自身がセクシュアル・マイノリティーであることを明示したくはないミュージシャンは、性的指向がイシューとはされていないライヴ・イヴェントを、その活動場所としていくのが筋です。

 その意味では、出演者が全員ゲイでありながら、それがゲイのライヴ・イヴェントであることを表立っては謳っていない(つまり性的指向をイシューとはしていない)ライヴ・イヴェント、つまり「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」にのみ出演し、「LGBTのライヴ・イヴェント」を明確に表立って謳っているライヴ・イヴェントには一切出演をしない、というスタンスのゲイのミュージシャンは、自分に最適な活動場所を、自分自身の意志できちんと適切に選んでいると言えます。だから、私はそういうゲイのミュージシャンを、正誤で論じようとは思わないし、否定する気持ちもありません。

 しかし、それが「LGBTのライヴ・イヴェント」であると明確に謳っているライヴ・イヴェントに、自らの意志で出演していながら、それでいて自身がLGBTであることは伏せたいというミュージシャンが、もしも2014年の現在でもいまだにいらっしゃるというのであれば、それは、ご自身の活動のスタンスと、ご自身の活動場所の選択が、明らかに「矛盾」を起こしている状態です。

 ご自身がLGBTであることを公にしたくないミュージシャンが、「LGBTのライヴ・イヴェント」に出演なさるのは、「矛盾」なんです、理屈の上では。

 そういうミュージシャンのかたにとっては、性的指向がイシューとはされていない一般のライヴ・イヴェント、および「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」こそが、ご自身の活動スタンスに見合った、最適の活動場所であるはずです。

 これは、「LGBTのライヴ・イヴェント」から「クロゼットのミュージシャン」を閉め出して「排除」する、ということではありません。

 同じ器に収めることだけが、「異なる者同士の共存」ではない、ということです

 話はここで少し横道に逸れますが、日本という国は、経済先進国の中の、人権後進国です。人権意識の未熟さは、経済先進国の中でも群を抜いている。

 日本では、人権教育が今でもおろそかにされているせいで、法律上の権利の問題と、モラルの問題が、常に混同されてしまっていて、結果、「平等」という概念を、「画一化」と混同してしまっている人が、本当に多い

 人の「平等」というのは、あらゆる属性の人たちに、隔てのない同等の権利が、国から認められ、法律によって保証されている、という状態です。

 つまり、これは人権に関わるイシューなんですね。

 ところが。

 日本では、それを人権問題として認識なさっているかたのほうが少数派であるせいで、個々の違いからは目を背け、違いがないもののように扱うことこそが、人の「平等」だ、と理解してしまっているかたが、本当に多いんですね。

 この「平等」の考え方は、「四民平等」の時代から何ら変わっておらず、したがって人権の保証という部分が欠落しています。にもかかわらず、大半の日本人のかたにとっては、いまだにこれこそが「平等」であって、人権ではなくモラルに関するイシューとして理解されてしまっている。

 同性愛も異性愛も、人を愛することに違いはない、異常なことではない。だから、同性愛のことをいちいち取り沙汰するのは、同性愛をあたかも特殊なものであるかのように扱っていることなんだから、同性愛のことを話題にするのはやめましょう、そもそも恋愛とかセックスの話題は私的な事柄で、他人が口を挟むべきことではないんだから、公の場で話題にするべきではない、だから性的指向の話をするのはやめましょう――というのが、日本人の大半のかたが考えていらっしゃる、同性愛者と異性愛者の「平等」の考え方であるように、私には感じられます。

 だから、いつまで経っても、セクシュアル・マイノリティを取り巻く「法律上の不可視、不平等」は、なかなか話題にはされにくいのではないでしょうか。

 同性愛や性同一性障害を話題にするという行為それ自体が、それらを特殊なもののように扱う、いわば「不平等」な行為であるという認識が、セクシュアル・マイノリティの当事者をも含めた日本人の大半を占めているように、私には思われます。

 人権問題と、モラルの問題が、日本では混同されてしまっているから、セクシュアル・マイノリティについての議論は、いつだって途中からモラルの話にすりかわってしまって、同性愛や性同一性障害を話題にすることそれ自体が「不平等」な行為であるかのようにされて、結果、問題意識そのものが否定されてしまう。

 だから、日本では、いつまで経っても、性的指向や、性に関わる諸問題が、イシュー化されない。

 しかし、話題にすることそれ自体は、別に悪いことでも不平等なことでもないのです。

 重要なのは、「どのような形で話題にしているのか」、という部分なのです。

 個々の違いからは目を背け、違いがないもののように扱うことこそが、人の「平等」だ、という考え方は、実は、ダイバーシティ(多様性)の尊重とは、対極にあるものです。

 個々の違いからは目を背け、あたかも違いがないかのように扱うのは、それは「平等」ではなくて「画一化」であり「均質化」です。この考え方では、多様性が認められていない。

 だから、いつまで経っても、日本にはダイバーシティという概念が定着しないのではないでしょうか。

「画一化」「均質化」を、「平等」と混同してしまっているから、日本にはダイバーシティという概念がなかなか定着しないし、女性やマイノリティが直面している差別問題も、「人権の不平等」とモラルの問題とが混同されているせいで、「え? 何が不満なの? そんなのは個々人のモラルの問題でしょ? わざわざ大騒ぎするようなこと?」といったような調子で、全く問題にされない。問題視するほうがおかしいとさえ思われている。そのせいで、女性やマイノリティの当事者のみなさんのあいだでさえ、スピーク・アウトは恥ずかしい行為、大人げない行為だという意識が一般化してしまっている

 日本の公人による差別発言が、日本のソーシャル・ネット上で一時的には議論を呼んだとしても、マイノリティのみなさんのあいだでさえ、「まあまあ、落ち着いて。この程度のことで騒ぐなんて大人げないよ」という態度こそがいちばんフェアで理性的であるかのように思われている、そういう空気を私は感じます。

 日本の社会の中にも、差別はあるんです。ただ、日本人の大半のかたは、それを人権問題としてではなくモラルの問題だと認識していらっしゃるようだから、それを政治問題として扱ったり、抗議運動を起こしたりすることには違和感があるんでしょうね。だから、「そんなのは個々人の意識の問題でしょ、騒ぎ立てるなんておかしいんじゃないの?」という形で議論の幕引きがされてしまって、社会問題としては扱われない。実際には差別をされている側であってさえも、自分が直接的な被害を被らない限りは、自分たちの属性が不等な扱いを受けているとは実感がおできにはならないかたが多いようです。そして、なまじ自分には学があると自負していらっしゃるかたほど、自分が受けてきた教育に欠落があったとはお考えにならない(あるいはそのようにお考えになるのを意図的に忌避なさっている)から、ご自分の中の人権意識の欠如にはお気づきになっていないかたが多いように、私には見受けられます。

 個々の違いからは目を背け、違いを排除し、同じ器の中に収めて均質化してしまい、イシュー化はタブーにしてしまうことこそが「平等」であり、それこそが「異なる者同士の共存」だという認識が、どうやら今の日本では多数派のようです。

 ――でも、私には、それこそが違和感なのです。

「異なる者同士の、同一社会での共存」というのは、互いの違いを認め合い、尊重し合った上で、互いが互いとも快適に暮らせるよう、「互いの違いに基づいた適切な住み分け」を、同一社会の中で行なっていくことでしょう?

 たとえば、足の不自由なかたのために、公共の施設に、車椅子専用の出入口とかレーンとかトイレを併設するのは、これは「互いの違いに基づいた適切な住み分けを、同一社会の中で行なっていくこと」でしょう? そしてこの住み分けを、誰も悪いことだとは思っていないでしょう?(こういうことを書くと、ハンディキャップをお持ちのかたとセクシュアル・マイノリティを同一線上で語るのは、どちらか一方に対して失礼だ、ということを言い出すかたが必ずいらっしゃるんですが、私に言わせるならば、失礼だと言い出すこと自体が、属性の違いに優劣をつけているヒエラルキー意識の表れだし、マイノリティについての話題をタブー視している意識の表れでもあって、そのようにタブー視しているからこそ、マイノリティのみなさんが直面しているさまざまな問題がなかなか表面化せず、改善が遅れてしまう一因につながっているのだと思います。)

「異なる者同士の、同一社会での共存」で肝要になってくるのは、異なる者同士の違いからは目を背けて、同じ器の中に収めて均質化してしまうことではなくて、「それぞれの違いに応じたインフラの整備」、つまりは「互いの違いに基づいた適切な住み分け」のはずでしょう?

 ここで話は戻ります。

「クロゼットのミュージシャン」のかたが、「性的指向をイシュー化するか否か」という一点において、自身の活動スタンスにはそぐわないないはずの、「LGBTのライヴ・イヴェント」(「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」ではなく)に、あえて出演をなさる理由というのは、部外者の私には窺い知れない個人的な領域で、複雑な事情がいろいろに働いた結果なのだろうとは想像します。しかし、理屈だけで言うならば、「活動場所の住み分け」をしたほうが、そのミュージシャンのかたにとってはプラスのはずですよね? というのも、自身がLGBTであることをアウティングされるリスクは回避できるんだし、ミュージシャンとしてのキャリアに黒歴史が生じることもないのだし(LGBTであることを公にするのがNGであるなら、「LGBTのライヴ・イヴェント」への出演は黒歴史ですよね?)。

 そして、そのようなミュージシャンのかたは、LGBTであることを公にして活動しているオープンリーのLGBTミュージシャンのかたがたのスタンスを、決して批判するべきではありません。

 もしも、2014年の現在でさえ、オープンリー・ゲイのミュージシャンのスタンスを批判するクロゼットのLGBTミュージシャンのかたがいまだにいらっしゃるとしたら、私はそうしたミュージシャンのかたに対して、考え方の違いからではなく、多様性を否定しているという理由から、その「多様性の否定」という「行為」の部分をこそ、批判させていただきます。

 自身の性的指向と自身の表現活動を、どのように結び付けるのか、あるいはどのように切り離していくのか、それは各々のミュージシャンの自由です。そのスタンスの違いは、正誤で論じられるべき性質のものではない

 ご自分がゲイだということをイシュー化したくないゲイのミュージシャンのかたは、通常の対バン・ライヴ・イヴェント、および「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」に出演していれば、それで何事も問題はないでしょう? ご自分とは活動スタンスの異なっている他のオープンリー・ゲイのミュージシャンたちを批判する理由は、どこにもないはずです。あるとしたら、それは自分のスタンスのほうこそが正しいのだということを第三者にもアピールしたいというだけの、卑小なエゴイズムに過ぎません。

 同じ理由で、オープンリーのLGBTミュージシャンの側も、クロゼットのミュージシャンのかたたちのスタンスを、決して批判してはいけない。それは多様性の否定です。

 ご自身がLGBTであることを公にしたくないミュージシャンのかたが、「LGBTのライヴ・イヴェント」に出演するというのは、「矛盾」なんです。理屈から言えば

 性的指向をイシュー化したくないのに、それをしているライヴ・イヴェントに出演なさっているんだから、この行為は「矛盾」です

 つまり、「各々の違いに応じた適切な住み分け」を、行なっていらっしゃらない

 その「矛盾」を、イヴェントのオーガナイザーが「矛盾」のままで許容し、「矛盾」の許容のほうをむしろ優先して(それこそが「異なる者同士の共存」であるという認識でいらっしゃったのかもしれません)、そうやって性的指向のイシュー化の棚上げを続けていった結果、本来は性的指向のイシュー化というところから出発したはずのムーヴメントは、その必然を失い、自壊・消滅してしまった。それが、日本のゲイ・インディーズ・シーンが辿った道です



 話を Sound Summit に戻します。

 私が今回の Sound Summit のプロモーション活動で気になったのは、それが「LGBTのライヴ・イヴェント」であることが明確に謳われていたにもかかわらず、出演者の誰がLGBTで、誰がアライなのかが、曖昧にされていたことです。

 もしも Sound Summit が、最初から性的指向をイシューとはしていない、クロゼットのライヴ・イヴェントであったならば、私はそうした性的指向の明示の曖昧さを、取り沙汰することはしません。そして、Queer Music Experience.で取り上げることも原則としてはしません。出演者のみなさんにはご迷惑でしょうから。

 しかし、Sound Summit は、「LGBTのライヴ・イヴェント」であることを、その公式サイトの中で、明確に謳っています。

 Sound Summit は、2014年現在では、「日本で唯一の、定期開催されているLGBTのライヴ・イヴェント」なんです。

 そして。

 かつての日本のゲイ・インディーズが消滅に至った主要因とは、性的指向に立脚した音楽活動こそがゲイ・インディーズの出発点であったにもかかわらず、あとから参入してきたミュージシャンおよびオーガナイザーが、理由はどうであれ、出演者の性的指向のイシュー化を棚上げして、回避するようになったことであったからには、私は今回の Sound Summit が、かつての日本のゲイ・インディーズが踏んでしまった轍を、またもや踏んでしまっているように見えるのです。

 もちろん、これは Sound Summit のライヴ本編を観ての感想ではなく、事前のプロモーション活動を見ての感想です。

 しかし、少なくともプロモーションの段階では、異性愛者も含めた出演者の性的指向が、曖昧にされていた。これは事実です

 加えて気になったのは、オーガナイザーでもいらっしゃる KURO さん以外の出演者のみなさんが、このライヴ・イヴェントの宣伝に、KURO さんほどには力を入れてはいらっしゃらなかったことでした。

 私は、KURO さん以外の出演者のかたも、何人かは Twitter でフォローさせていただいているんですが、Sound Summit の宣伝ツイートを流していたのは、KURO さんお一人だけでした。

 ひょっとしたら、私がフォローしていない他の出演者のかたたちも、ちゃんと宣伝ツイートを流していらっしゃったのかもしれません。しかし、通常ならば、私がフォローしていないミュージシャンのかたたちによる宣伝内容のツイートも、ふつうは共演者のかたたちがリツイートをなさって、私のタイムラインにもちゃんと流れてくるんですよ。ところが、今回の Sound Summit の場合は、それすらもなかった。

 いくら今回の Sound Summit が、定員50名の事前予約制の小規模開催ではあっても、KURO さん以外の出演者のかたがたの宣伝ツイートが全く流れてこなかったというのは、さすがにおかしいと思いました。

「クロゼットのゲイ・ライヴ・イヴェント」の宣伝ツイートでさえ、ちゃんとリツイートされて、うるさがたとして煙たがられている私のタイムラインにもしっかりと流れてきているのに。

 ……まあ、これというのは、KURO さん以外の出演者のみなさんは、SNS を宣伝媒体としては用いていないという、ただそれだけのことなんでしょうけれど。

 でも、いくらなんでもそれにしたところで、当日の盛り上がりはともかくとして、今回の Sound Summit のプロモーション活動に関しては、オーガナイザーの KURO さんと、他の出演者のみなさんとのあいだに、かなりの温度差が生じていたという印象を、私はどうしても拭えません。

 むしろ、オーディエンスの側にいるたけださとしさんのほうが、出演者のみなさんよりも、よっぽど宣伝に尽力なさっていましたよね。

 たぶん、KURO さん以外の Sound Summit の出演者のかたたちは、「LGBTのライヴ・イヴェント」の開催についての問題意識とか危機意識を、KURO さんほどには共有できていないんじゃないか、という気がします。

 まあ、これは邪推の領域を出ない話ですが。

 しかしながら、もしも本当にそういう問題意識とか危機意識を共有できていたのであれば、より大きな力が注がれたのは、むしろ事前のプロモーション活動のほうだったはずです。

 自身の表現活動に現実的な危機意識が伴っていない人ほど、プロモーション活動の優先順位は低くなるものです

 今回の Sound Summit は、実際に現場に足を運ばれたかたたちのツイートを拝読した限りでは、性的指向というイシューとは無関係のライヴ・イヴェントとして見なした場合には、大成功であったのだと思います。

 しかし、「LGBTのライヴ・イヴェント」としてはどうだったのかというと、あくまでもプロモーションの様相だけを取り沙汰するならば、10年以上も棚上げにされ続けている課題が、依然として、目に見える事象として、残存したままです。

 そして、オーガナイザーの KURO さんは、長年に渡って日本のゲイ・インディーズ・シーンを支えてこられた重鎮のお一人でいらっしゃるからこそ、「LGBTのライヴ・イヴェント」としての Sound Summit の課題も、おそらくは、部外者でしかない私ごときがわざわざ申し上げるまでもなく、よくおわかりのはずであろうと存じます。

 KURO さんというかたが、「LGBTのライヴ・イヴェント」のありかたについて、問題意識をお持ちのオーガナイザーでいらっしゃることを、私は存じ上げています。

「ひとりひとり、みんな違うからこそ大切な存在」という文言を、きちんと開催趣旨の中に盛り込んでいらっしゃる KURO さんが、2014年現在の日本の「LGBTのライヴ・イヴェント」のありかたについて、何もお考えがないはずがない。そんなわけがない。

 KURO さんというかたは、他者の意見を非常に尊重なさるかたです。私のように、自分の意見だけを一方的にガーッと言い散らすような、乱暴なかたではない。そんな KURO さんが、考えかたのさまざまに異なっている大勢の出演者のみなさんを一つにまとめていくのには、並々ならぬご苦労があるはずです。

 相手が誰であっても常に別け隔てなく接し、他者の意見を尊重なさる KURO さんだからこそ、そんな KURO さんがオーガナイズなさる「LGBTのライヴ・イヴェント」に、最大公約数的な曖昧さが表れてしまうのは、これはもう、人と人とのつながりを大切になさる KURO さんのお人柄ゆえであり、出演者のマイナスになるようなことは絶対にすまいという、そのお優しさゆえです。

 私のように狭量な者とは違い、KURO さんというかたは、他者の言動の「矛盾」をも個性の一つとして許容することのできる、非常に器の大きいかたでいらっしゃいます。

 そして KURO さんは、実際の現場を動かしていらっしゃるかただからこそ、日本の「LGBTのライヴ・イヴェント」のありかたの難しさを、「机上の人間」でしかない私以上に、実体験として、よくおわかりになっていらっしゃるはずです。

 日本の「LGBTのライヴ・イヴェント」のありかたの難しさ、これを自分自身の問題として、真向から取り組んでいらっしゃるのは、今の日本ではただ一人、KURO さんだけです。

 だから、この記事の中で私が長々と書いてきたことのほとんどは、KURO さんにとっては、特に耳新しい内容ではないはずです。もしも KURO さんがこの記事をお読みになってくださったとして、おそらく KURO さんは、「そんなことはわかってるんだよ、でも現実はそんなに簡単じゃないんだよ」とお思いになるはずです。

 KURO さんが今回なさったように、それが「LGBTのライヴ・イヴェント」であることを明文化して宣言して、さらに加えて「ひとりひとり、みんな違うからこそ大切な存在」という文言をも掲げることによって、多様性の尊重を訴えながらも、その一方で、性的指向のイシュー化は回避しつつも「LGBTのライヴ・イヴェント」にも出演してしまうという「活動場所の選択の矛盾」を抱えている出演者のかたをも、多様性の尊重の実践の一つとして、許容なさる。つまり、それが「矛盾」だということは承知の上で、二重の「矛盾」をあえてお抱えになる。それは、KURO さんご自身が自らの意志で意図的に選択なさった、Sound Summit の姿であるのだと思います。

「矛盾」を「矛盾」だと十二分に承知なさっている上で、それを意識的に許容していくことは、誰にでもできることではありません。芯の強さと優しさと包容力、真の意味での人望を備えたかたでいらっしゃらなければ、それを引き受けることなどはできません。そんな難事業に自ら身を投じていらっしゃる KURO さんを、私は本当に尊敬しています。

 しかし、これというのは、裏を返せば、現状の Sound Summit が、二重の「矛盾」をも許容してしまう、非常に懐の大きな場として成立しているのは、これはもう、オーガナイザーである KURO さんの人望に負うところが大である、ということなんです。

 ということは、今後、仮に、Sound Summit の運営が KURO さん以外のかたの手に、一時的にではなく永続的に引き継がれたとして、そのオーガナイザーのかたには、KURO さんがこれまでお引き受けになっていた二重の「矛盾」までもが、そのまま遺産として受け継がれてしまう、ということになります。

 言いかたを変えれば、後続のかたがたに「負の遺産」を遺す、ということです

「矛盾」の許容というのは、リアルタイムでそこに関わっていらっしゃる全ての人々の誰をも傷つけない、いちばん穏当で、かつ現実的な対応なのかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、結局のところそれは、「次世代に問題を先送りにする」という行為なんですね。

 KURO さんによる「矛盾」の許容というのは、あくまでもそれが「矛盾」だということは十二分に承知した上で、その「矛盾」をも、個性とか多様性と理解して尊重し、受け入れてしまう、ということだと思うんですね。ところが、KURO さんのように人望がおありになって、強い影響力もお持ちのかたがそれをやってしまうと、「活動場所の選択の矛盾」を抱えていらっしゃるミュージシャンのかたたちにとっては、KURO さんによる「矛盾」の許容が、あたかもその「矛盾」に KURO さんから正当性が認証されたかのように感じられてしまって、「矛盾」を「矛盾」だと冷静に自己分析・自己批判することが、できなくなってしまうでしょうね。他者による認証願望の強い人ほど、KURO さんのように影響力の強いかたからの「許容」を、「正当性の認証」であるかのように都合良く錯覚してしまいがちなので。

 KURO さんが大切に守ってこられ、今日まで丹念に積み重ねてこられた偉大な業績を、いったいどなたが引き継がれるにせよ、はたしてそのかたが、KURO さんと同じように、Sound Summit を、二重の「矛盾」をも許容してしまう、懐の大きな場として成立させることができるだけの人望と力量をお持ちであるかどうか、それは全く保証の限りではありません。

 現状の Sound Summit のありかたというのは、そこに内包されている二重の「矛盾」を、KURO さんの人望で相殺することによって、かろうじてバランスが保たれているという状態です。したがって、KURO さんがそこから身を退かれたとき、KURO さんの人望によってかろうじて保たれていた均衡は、確実に崩れるでしょうね。そして、「負の遺産」として蓄積されてきた「矛盾」が、そこで一気に噴出するはずです。

 そして、その可能性を、たぶん KURO さんご本人と、それから同じ福岡のLGBTのミュージシャンのみなさん(特に響子さんやとんちピクルスさん)、あとはオーディエンスの側ではたけださとしさんが、既にお気づきのことではないかと思います。そして、お気づきではあっても、それをあえて表には出していらっしゃらないだけなのだと、私はお見受けしています。

 私がここで言っていることというのは、青臭いのかもしれません。というか、現実に青臭いんでしょう。現場で実際に汗を流していらっしゃるみなさんの感情を汲み取れていないことも、自覚しています。しかし、それでもやっぱり、現実路線というのは「問題の先送り」の別名である、と私は思うのです。

 どんなムーヴメントにも、「矛盾」の一つや二つぐらいはあります。ダイバーシティの尊重という概念でさえ、より深く突き詰めていけば、やっぱり「矛盾」を孕んでいます。人間そのものが「矛盾」の塊です。しかし、たとえ同じ「矛盾」であっても、それが解消できるものなのか、そうでないのか、あるいはそれが「矛盾」であることを許容できるものなのか、できないものなのか、あるいは許容すべきなのか、そうでないのか――そうやって「矛盾」一つひとつの性質を吟味し、検討していくことこそが、より良き社会および文化の形とありかたを模索して、ブラッシュ・アップしていくという、これこそがつまり「イシュー化」という作業のはずです

「矛盾」を「矛盾」だと承知した上で、その「矛盾」をも個性の一つとして許容される場を作る。それもまた、より良い社会の実現の、一つの方法ではあります。しかし、それができるためには、優しさが必要であり、強さが必要であり、包容力が必要です。人としての器の大小が、まず何よりも問われてしまう。誰にでもできるような容易いことではありません。

 ということは、結局、現状の Sound Summit は、リーダーの人格次第で、その存亡が大きく左右されてしまう、共同体のようなものなのだ、と私は思います。

 だからこそ。

 私が書いているこの記事は、オーガナイザーの KURO さん個人に向けて書いているのとは、全然違いますからね。

 そうではなく、過去、現在、未来に関わりなく、KURO さんが切り開いてこられてきた道の上を歩かれている、すべての出演者のみなさんと、日本のインディーのLGBTミュージックに関わっている、あるいは関心をもっている、不特定多数のすべてのみなさんに向けて――つまり、今こうやってこの記事を読んでくださっているあなたに向けて――私はこの記事を書いています。

 Sound Summit の関係者のみなさんと、そのオーディエンスのみなさんは、KURO さんの人望と、その懐の大きさに、いつまでも依存しているばかりではいけない。私はそう思います。

 日本のゲイ・コミュニティは、ゲイ・インディーズ・シーンの消失を、既に経験しているんです。

 つまり、性的指向のイシュー化を棚上げにしていると、どういう結果を招くか、それを、既に日本のゲイ・コミュニティは、学習しているはずだ、ということです。

 にもかかわらず、棚上げを続けていると、その先はどうなるか。

 ……歴史は繰り返されますよ。確実に。



 ただし。

 もしも、2014年現在の、日本のインディーのLGBTミュージシャンのみなさん、およびオーガナイザーのみなさんが、我々には「LGBTのライヴ・イヴェント」なんぞ不要だ、とお考えになっていらっしゃるのであれば、それならそれでいい。

 だって、私が守ろうとしてきた大切なものは、もう疾うの昔に、既に失われているのだから。

 私が「LGBTのライヴ・イヴェント」にこだわらなければいけない理由は、もう既に失われています。

 だから、日本のインディーのLGBTミュージシャンのみなさんの大半は、性的指向のイシュー化を望んでいないという現状理解を、改めて繰り返すだけです。

 人権意識の未熟な(しかも大半はそれに無自覚な)日本人にとって、ゲイ・インディーズというムーヴメントは、たとえそれがゲイの当事者のあいだにあってさえも、まだまだ時期が早過ぎた。そういうことなんでしょうね、きっと。

 子どもが背伸びをして、サイズの合わない大人の大きな靴を履いて歩いていたら、それがスッポリと脱げ落ちてしまった。

 そういう日本のLGBTの現状を、私はこれからも言葉に表して、記録として残していくのみです。

 そして、その記録が、私たちの世代が着々と積み上げてしまっている「負の遺産」を、少しでも軽くするための手がかりになってくれたらいい。

 ――そう思いながら、私はこれを書いています。







 さて。

 それでは最後に、たけださとしさんによる、Sound Summit 開催当日の、一連の実況ツイートを、この記事の最後に、まとめて転載させていただきます。

 私は先に、たけださんによる一連の実況ツイートは、「LGBTのライヴ・イヴェント」としての Sound Summit はどうなのか、という部分には触れられていない、などと、失礼にも上から目線で偉そうに書いてしまいましたが、しかし2014年現在の日本の「LGBTのライヴ・イヴェント」の「記録」を、ここまで詳細に残してくださるかたは、たけださんを置いて、他にはいらっしゃいません。

 現在の私は、同居している父親が重病を患っている関係で、レジャー目的の遠征ができる状況にはありません。だからというわけではないのでしょうけれども、たけださんは、現在の私が足を運ぶことのできない、遠隔地でのゲイ・ライヴ・イヴェントについて、非常に詳細な実況ツイートを残してくださいます。それが私には本当に嬉しいし、非常にありがたいのです。

 通常、ライヴ・イヴェントの実況ツイートというのは、画像を添付して、あとは「素晴らしい!」とか「楽しい!」とか、一言だけで終わってしまうのが常なんですが、たけださんの実況ツイートは、画像はもちろんのこと、制限字数をフルに使って、そのミュージシャンのパフォーマンスの魅力を、実に適確な表現で、伝えてくださっているんですね。

 そんなたけださんの、史料価値の非常に高い、ありがたい実況ツイートを、このブログに、ぜひとも「記録」として一括転載したいという、私のずうずうしいお願いに、たけださんは、「喜んで提供いたします」と、快諾をくださいました。

 たけださん、本当に、本当に、ありがとうございます。

 たけださんのようなかたがいらっしゃるからこそ、今の私は、日本のインディーのLGBTミュージックの動向を、どうにかこうにか、追いかけ続けることができています。

 たけださんのインディー・ミュージック愛を、私は心からリスペクトします。



 それでは、以下からが、たけださとしさんによる、今年の Sound Summit の実況ツイートの転載です。







トップバッターは蛇子。過剰なディレイのナレーションでいきなりツカミに来ます。ニヤニヤしないではいられません。客を苦笑させる歌詞&パフォーマンスは絶品です。(「ト・ト・ノ・イ PALACE」/Sound Summit@福岡CCC)
蛇子

https://twitter.com/satoshitakeda/status/482823209037750272



凛とした歌うたい、響子(ひびきこ)。しっとり聴かせるバラッドも勿論良いのだけれど、こういうアップの曲も小気味良い。こんなサバサバして温かいボーカリストは案外いそうでいない(「君の雨」Sound Summit@福岡CCC)
響子(ひびきこ)

http://twitter.com/satoshitakeda/status/482833550559830016



「現代音楽作曲家・武藤健城」なんていうもう一つの顔に騙されました。笑いすぎて死にそうです。その名はイーガル(「ささいな不幸を大袈裟に歌う組曲」より「鍵がない」Sound Summit@福岡CCC)
イーガル

http://twitter.com/satoshitakeda/status/482838538287718400



次々繰り出すパフォーマンスにローテーション気味のトークが楽しいセクシー大道芸人セクシーDAVINCI 。確かに「ご家族でご覧頂け」ます。客席最前列の少女の「セクシー!」の掛け声が微笑ましい。 (Sound Summit@福岡CCC)
セクシーDAVINCI

http://twitter.com/satoshitakeda/status/482854999710388225



東京モンにとってはなかなかライブを見られないGuzzle Pitt。今日は仕事で参加できないREOにかわって、おわっとうのもっきーをゲストにKUROとのツインボーカル。(「バナナ・ムーン」Sound Summit@福岡CCC)
Guzzle Pitt

http://twitter.com/satoshitakeda/status/482860411385942016



グランドピアノがあるので1曲弾きましょうと、今年もサポートで出ずっぱりのピアニストきんちゃん。日本語の題名はトトトの歌っていうんだけど原題何て言ったかなあと言いながら弾いたのがコレ(「チョップスティックス」Sound Summit)
きんちゃん

http://twitter.com/satoshitakeda/status/482869513789005824



飛び道具も盛大に駆使する実力派歌手、雑餉隈の核弾頭娘・山口紗希栄。イーガルさんもそうですが才能を惜しみ無く無駄遣いできる人は本当に凄いと思います。(サキエのテーマ的な何か Sound Summit@福岡CCC)
山口紗希栄

http://twitter.com/satoshitakeda/status/482888634224242688



トリは極上の大人のポップスを紡ぐCANVAS OF MUSIC。創也さんのもう一つのユニット、pinca la trio「天蓋のパズル」のセルフカバーを新譜で音源化はめでたい。(「パズルの答え」Sound Summit@福岡CCC)
CANVAS OF MUSIC

http://twitter.com/satoshitakeda/status/482891156770914305








 たけださとしさんによる、今年の Sound Summit の実況ツイートの転載は、以上です。

 たけださん、どうもありがとうございました!

 そして、オーガナイザーの KURO さん、本当にお疲れさまでした。ここでは苦言ばかりを書き連ねてしまいましたが、2014年の今でも、こうやって「LGBTのライヴ・イヴェント」の開催を続けてくださっていること、感謝しています。

 KURO さんは、日本のLGBTシーンに、なくてはならぬかたです。







 今回の記事は、以上です。






(おそらく、この記事をお読みになってくださった大半のかたが、「だったらお前も、KURO さんのように自分でライヴ・イヴェントをオーガナイズすればいいじゃないか」とお思いになったことだろうと存じます。申し訳ありませんが、現在の私は、それをしたくともできる状況にはありません。したがって、現在の私は「机上の人間」でしかなく、現場にコミットできる機会が、00年代のころに比べて激減しています。そのことは私自身、非常に歯痒く、恥ずかしく思っています。「机上の人間が何を言う」という批判については、本当にそのとおりで、返す言葉はありません。本当に申し訳ありません。)



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2014.07.18 Top↑
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