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まず最初に。

法的に効力のある同性婚とは何なのか? について。



法的に効力のある婚姻とは、つまり「入籍」です。

同じ戸籍に入ることによって、さまざまな法的権益を、人は、国から受けることができるようになります。

たとえば。

いきなり重い話になるけれど、医療上の同意の権利とか。

あるいは、保険の受取人指定とか。

そうした、「一生を共に暮らしていく上において、必要とされる、あるいは、あれば大いに役に立つ、さまざまな権益」が、国から保障されるようになります。

それが「入籍」。

したがって、法的な同姓婚が認められていない日本では、それらの権益を受けるために、養子縁組という形で「入籍」しているゲイのカップルも、大勢います。



     *



法的な同性婚を認めるか否か? という議論は、言いかえれば、

「異性愛者であれば結婚によって自動的に受けられる権益を、同性愛者にも認めるか否か?」

という議論でもあります。



もちろん、たとえ異性愛の人であっても、誰かと結婚をしなければ、それらの権益を受けることはできません。

が、しかし。

同性愛者の場合は、

「結婚に伴う権益を受けるか受けないかという、本人の自由意志による『選択肢』自体が、そもそも国から与えられていない」

という状態なわけです。



    *



そのように前置きした上で、今回は、エルトン・ジョンの同性婚のニュースについて。






ロイター - エルトン・ジョンさん、長年のパートナーと12月21日に結婚

BARKS - エルトン・ジョン、結婚式はジミに



ちなみに、これは今年の4月26日付の、BARKSの記事。
BARKS - エルトン・ジョン、12月に結婚予定



このニュースに、はたして異性愛の人たちは、どういう反応を示すだろうかと思って、いろいろなブログやサイトを拝読した。

そして。

異性愛の方が運営されている幾つかのブログで、

「同性で結婚することの意味はどこに?」

という疑問を投げかけている記事を見かけた。



エルトン・ジョンの場合。

彼がほしがっているのは、婚姻の公的証明というよりは、明らかに、「婚姻に伴う法的権益」だ。

仮に、エルトン・ジョンが婚姻の公的証明にこだわっていたのだとすれば、彼は充分にお金のある人なのだから、同性婚の認められている他の国でさっさと式を挙げて、そこの国の法律で認められている結婚証明書を受け取ることができたはず。

そうではなく、イギリス国内の法整備に伴せて結婚しようというからには、

「母国であるイギリスにおける、婚姻に伴う法的権益の有無」

にこだわった結果、なのだと思う。

つまり、彼が求めたのは、あくまでも「自国で効力を持つ、婚姻に伴う法的な権益」だ。



加えて、彼がイギリスの同性婚の「一番乗り」にも大きくこだわっている理由とは何か。

派手好きな彼のことだから、ただ単に一番乗りをしたいだけ、という意地の悪い見方もできるだろう。

しかし、さすがにそれだけ、ってことはないでしょう。

世界的な有名人であり、ナイトの称号も持っているエルトン・ジョンが、イギリス初の同性婚カップルとなることで、同性婚の法的効力の意味を世界に広め、イギリス国内の同性愛カップルが大きく後に続くのを促すという意図も、そこには大きく働いているはずだ。



    *



ちなみに、自分は普段、海外挙式を中心に手がけている旅行代理店で仕事をしている。

一口に海外挙式といっても、法的に日本で有効な結婚証明書が発行される場合と、そうでない場合がある。

仮に、海外でちゃんとした式を挙げたとしても、それが単なるブレッシング(祝福)ならば、日本で「入籍」の手続きをしなければ、法的には夫婦とは認められない。

つまり、「日本の法律に基づく入籍」をしなければ、結婚に伴う法的権益は、どれだけゴージャスな式を挙げようとも、一切受けられない。

これは、披露宴をするかしないかというレベルの話ではない。

世界的に権威のある海外の教会で、きちんと牧師さまがいて、神の前で永遠の愛を本気で誓ったとしても、それが「自国の法律に基づく婚姻」でない限り、2人は法的には結婚したことにはならないし、法的権益の保障もないわけである。

ところが、だ。

事前にそれを理解した上で海外挙式の相談に来るお客さんは、存外少ないのである。

お客さんが希望した場所がブレッシングのみの場合、法的には何の効力もないのだということをコンサルティングの担当者が説明すると、大抵の場合、お客さんは「えっ!? そうなんですか!?」という反応を示す。



で、ここで話をエルトン・ジョンの同性婚のニュースに戻す。

音楽専門サイトであるBARKSの4月の記事では、同性愛のカップルも婚姻に伴う法的権益が保障されるようになるということがちゃんと言及されているのだが、ロイターの最新の報道の仕方では、この「法的権益の保障」の重要性が、今ひとつ伝わりにくいなー、と思った。BARKSの記事にしても、最新のものは「挙式はどうなるのか」というところに焦点が当てられていて、同性婚の意義が見えにくくなっている。

悪意があるわけではないんだろうけれど、こうした報道の仕方によって、法的効力のある同性婚の意味が、イコール、公的な証明書が発行された、という程度にしか伝わっていない感じがする。

つまり、「国が同性同士の婚姻を認めた」ということが、「国が同性愛を公的に認めた」という意味だけに受け取られてしまっている。

そして、肝腎の「同性愛者にも婚姻に伴う法的権益が認められた」という「権益の保障」の部分が、ロイターの報道からは見落とされている、という印象がある。



法的な意味での結婚というのは、イコール、「入籍」なんだから、同性愛者の場合、養子縁組というやり方もある、というのは先にも書いた。

ゲイのカップルの養子縁組というのは、ゲイ向けのメディアでは、度々取り上げられてきたトピックだから、ゲイの当事者のあいだでは、「入籍」によってさまざまな法的権益が発生するという認識は、強くあると思う。

しかし。

一般のメディアでは、「入籍」によって同性愛者のカップルにどういう法的権益が生じるのかを論じているケースは、自分が考えていたよりもはるかに少なかった。

入籍によって法的権益が発生するのは、異性愛の人にとっては、当たり前すぎるくらい当たり前のことだから、かえってそのありがたみを実感していないんだろうか?

ありがたみを感じていないから、同性婚を求めるカップルが公的な証明書以外に何を求めているのかを、正確には理解できていない、ということなのか?

そんな気が、する。

同性婚を求めるカップルは、ただ証明書を欲しがっているだけなのだと誤解されているような気がする。



    *



同性婚の法的な意味を正しく理解している異性愛の人が、全くいないわけではない。

しかし、頭では理解していても、結婚の意義を「永遠の愛を誓う」という精神的な部分に、より強く見出している人たちの中には、同性愛者が入籍による法的権益を求めようとするのを、あたかも神聖な行為を汚しているかのように誤解している人もいる。

以前、ダウン・ロウについてインターネットで調べていたとき、「私は同性婚には反対」と書いていたブログを見かけた。

そのブログは、現在ではサーバから削除されているようなので、正確な引用はできないが、「私はゲイに差別意識はもっていない」と書いているにもかかわらず、

「ゲイの人が同性婚を求めるのは、それによって生じる権益を目的としているのが背後に見え隠れしていて、素直に賛同できない」

というような主旨のことを訴えていた。

法的権益の発生を踏まえた上で同性婚に反対しているのであれば、それはイコール、
「異性愛者ならば結婚することで自動的に受けられる権益を、同性愛者には認めない」
と言っているのと大差ない。

権益を認めないことが差別でなくていったい何なのか。

結婚することによって生じる権益が、ありがたさを感じないくらい当たり前になってしまったとき、その人にとって結婚の意味合いは、永遠の愛を誓うという精神的な部分だけが、大きくなってしまう。

だから、結婚に伴う法的効力が云々という話が、非常に功利的なものに思えてしまうのだろうか、とも思った。

でも、たとえば「できちゃった婚」なんてものがあるでしょ?

「できちゃった婚」は、「子どもができちゃいました、じゃあ結婚しましょう」という話なんだろうけど、なんで子どもができたら結婚しなきゃいけないのかといえば、それは、「自分たちの子どもが法的権益を受けられるようにする」ためではないのか?

もちろん、シングル・マザーとかシングル・ファザーというケースもあるだろうけれど、さすがに子どもの籍を入れなかったら、それは大いに問題でしょ?

だから、「籍を入れるか入れないか」というのは、「権益の保障を受けるか受けないか」ということとイコールではないのかな。

もしも結婚に法的権益を求めてはいけないというのであれば、そうした人たちは、「できちゃった婚」も否定してしかるべきだと思う。しかも法的に。

ところが、「自分の子どもが法的権益を受けられるようにする」のは、人としてあまりにも当たり前のことだから、「できちゃった婚」を法律の面から否定しようなどという人はいない。



     *



物凄ーく、夢のない話をするようだけれども。

結婚っていうのは、少なくともキリスト教式の結婚についていえば、結局は「教会による愛のシステム化」だ。

一夫多妻制の否定と、婚前交渉の禁止。それを教会が制度的に統制しようとしたのが、つまりはキリスト教式の結婚の始まり。

性愛を、制度によってコントロールしようとしているんだから、それはつまり、愛のシステム化に他ならない。

システム化という発想自体が、既に功利的なものなんですよ。

ところが、いつの時代になっても人間は不倫をするし、婚前交渉だって当たり前なのが現実だ。

本来の意図が機能しなくなっているにもかかわらず、儀式の部分だけはしっかりと残っている。

「永遠の愛を誓う」という宗教的な権威だけが、後に残っているに過ぎない。



結婚に伴う法的権益を同性愛者が求めるのが、どうにもあざとく感じられるという異性愛の人たちには、「制度的な結婚というものは、元来が功利的なものなのだ」ということも、理解してほしい。



    *



最後に。

もしも、法的効力のある同性婚が、日本でも認められたとしたら、はたして自分はどうするか。



結婚っていうのは、相手がいて初めてできるものなので、それはそのときになってみないとわからない。



同性婚が法的に認められるということは、つまり、「ゲイの生き方の選択肢が増える」ということだ。

選択肢というのは、「それを選ぶか選ばないかの自由が認められている」ということなのだから、結婚するのもしないのも、人それぞれ。

自分が望んでいるのは、あくまでも「生き方の選択肢が増える」ことだ。

同性のパートナーと結婚するという選択肢が法的に認められたとして、そのときには、自分も異性愛の人たちと同じように、パートナーと話し合いをして、周囲の状況と相談しながら、「自分に最適な選択肢を選ぶ自由」を享受するつもり。



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2005.11.29 Top↑
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